想像力と感謝

旅の目的

7月の暑い広島の街を歩いています。広島港から横川行7系統の電車に乗り、私は人であふれかえっている本通りの電停で下車しました。

今回私が広島を訪問した目的は二つありました。一つ目は8月の新線開通で廃止になる猿猴橋町電停付近を探索することと、もう一つは大学時代の友人に会うことです。

一つ目の目的はあっけなく終わりました。猿猴橋の街並みは、私の記憶の中にあったものとは大幅に変わっていました。「これが中国地方の中心都市の駅前か」と思うほど雑然とした街並みは、昔の面影は少し残るものの近代的な街に付随する一区画になっていました。

広島駅とその駅前が大きく変わったことと、駅の東側にマツダスタジアムができ、大きな人の流れが生まれたことがこの街の雰囲気を変えたのだと思います。

私は猿猴橋口の電停で下車して、8月3日以降電車が走らなくなる道を歩きました。体を構成する細胞が入れ替わるように、街も変化していくのが常でありますが、日本のそれは急激すぎて、時々もう少し待ってもらいたい気持ちになります。

せめて広島駅の西側に残るあの雑然とした街並みだけでももう少し残してほしいと思いながら駅前を後にしました。

さて、二つ目の目的まで時間があります。男が旧友に会うと言えば、たいていは一緒に酒を飲むことだからです。私は手に広電の一日券を持ち、夕方までこの街をぶらぶらすることにしました。

そういうわけで私は宇品に行き、舟入へ向かう途中に本通の電停で下車をしたのであります。

上空600メートルと足元と

本通りはその名の通り広島市を代表する商店街で、立派なアーケードの下は人であふれています。私は電停から西へと向かって歩きます。ほどなく頭上を覆っていたアーケードが終わり、頭上に夏の空が姿を現します。

先方が二つに分かれています。道なりに左斜め前に向かえば元安川へ出ます。右へ90度曲がれば広島を東西に貫く相生通りへと出る細い道。その途中にかつての島外科病院が診療科を変えてあります。

私は道なりに進み元安川へと出ました。左岸の道を上流に向かって歩きます。すぐに原爆ドームが現れます。近代的なビルが立ち並ぶ中、そこだけ時間が止まったような異様な雰囲気がします。

多くの外国人観光客がガイドの説明を聞いています。子どもたちが、すこし退屈そうにそんな大人たちの姿を見ています。

私は本通りのアーケードを抜けた時から私は心が落ち着きません。少し歩くたびに立ちどまり、気がつけば空を見上げています。

今から80年前の8月6日午前8時15分、私の立つ場所のすぐ近く、島外科病院の上空600メートルで原子爆弾が炸裂しました。

私は原爆ドームの脇に立ち、上空600メートルへ視線を向けます。心の中で、東京スカイツリーより少し低めの高さ、神戸のポートタワーを縦に5つ並べた少し上を見ます。

あの場所で80年と少し前、砲弾型の爆弾の中、半分に分けられたウラン235の塊が火薬の勢いによって一つになりました。臨界点に達した800グラムのウラン235は核分裂を始め、一瞬のうちに燃え尽きました。数千万度に達した中心点から熱と風と放射能が一斉に広がっていきました。

本通のアーケードが途切れた場所から「即死」という言葉が頭を離れません。私がここにいる時間がその時なら、私の体内の水分は一瞬のうちに蒸発しています。炭化した私の体は、爆風に吹き飛ばされて粉々になっていたことでしょう。

「即死」ってどんなことだろう。心を持ち、何かを考えながら歩いていた人間が、次の瞬間に炭の粉になっているなんてどんなことなんだろう。命っていったいどこに存在しているのだろう。頭の中でそんな考えがグルグルとめぐります。

原爆ドームの横を通り電停へ向かいます。私は無数の死者たちの上を歩いています。訳も分からぬまま即死した、遺体も何も残らなかった爆心地の死体の上を歩いています。上空600メートルだけでなく、足元も気になって気持ちが落ち着くことがありません。

私は電車に乗って相生橋を渡りました。

再会

舟入で昼食を食べ、横川駅前を散策し、再び中心部へ戻ってきました。今度は相生橋の手前、本川町の電停で下車します。電停のすぐ近くにある本川小学校の平和資料館を見学するためです。

ここは爆心地に最も近い学校でした。当時では珍しい鉄筋コンクリート造りの校舎であったため、被爆後も外壁は残り、戦後は窓も床もない状態から学校が再開されたと言います。この被爆校舎は昭和の終わりまで使用され、新校舎建設後もその一部は残り平和資料館になっています。

本川小学校は、その名の通り旧太田川の本川の右岸すぐに建っています。そこから中島越しに爆心地を眺めてみます。川で視界が開けているだけに、本当に絶望的な近さに感じられます。

この学校の教師と生徒は、それぞれ一人を除いて全員亡くなりました。この学校の校区は爆心地からほぼ半径1キロ以内に収まります。そのことは生徒だけではなく、その家族もほぼ全員昭和20年8月に亡くなったことを示しています。

資料館の見学者は私一人でした。熱線で溶けて変形した瓶や瓦が展示されています。そんな熱を浴びたコンクリートの壁が私の目の前にあります。そしてその壁の下には、変わり果てた姿の子どもたちが折り重なっていたことでしょう。ここでも私は死者たちの上を歩いています。

一階の展示室を見学し、私は地下へと階段を降りていきました。薄暗い地下室で私は思わず息を飲みました。私の中に数十年間眠っていた恐怖の感情が呼び起こされました。

そこにあったのは直径5メートルほどの円形のジオラマでした。被爆後の広島の街を示しています。一面茶色の表面にいくつもの川筋が刻まれています。ところどころに崩れたビルが建っています。あとはただ焼け野原が広がっています。

生命の匂いがしない、ただ無機質な広島の街が広がっています。ジオラマの中心点の上に赤い玉がつるされています。

私はこの赤い球に恐怖を感じました。40年以上前、小学生の頃でした。見た場所は平和記念公園の広島平和記念資料館です。ジオラマはいつの間にか本川小学校の地下へと移設されていたのです。

焼けただれた肌の人々の写真と並んで、私の心に最も刻まれた展示でした。あの赤い玉が爆発したら、そこから半径2キロぐらいがあのジオラマのようになってしまう。そのことが恐ろしくてたまりませんでした。

私は小学校の図書館で原爆や戦争の本を探して読みました。そんなことをわざわざしなくてもよいのに、私はそうせずにはいられませんでした。40数年前の小学校には、今の感覚で言えば「子どもに見せたらダメだろう」と思えるような戦争関連の本や写真集がありました。焼け焦げたりバラバラになった体の写真に子どもながら衝撃を受けました。

私が生老病死について考え始めたのは、あの時このジオラマを、この赤い球を見たからではないかと思います。そんなジオラマに、私はこの日、長い期間を経て偶然再会しました。

三つの街で

旧友と広島駅前の居酒屋をハシゴし、私は一人歓楽街のホテルへと戻りました。飲んだ後はダメだと分かっていましたが、サウナに入り汗をかきます。ギリギリまで暑さにに耐えて、サウナ室から逃げるように水風呂を目指します。

頭から水をかぶり、水風呂に体を沈めてフーッと息をつきます。私の中であの感情が湧き上がってきます。現代を生きるありがたさに涙が出そうになる気持ちです。長崎や小倉のサウナでも同じ気持ちになりました。

このホテルも爆心地から1キロ以内にあります。生き残った人はほぼいなかった場所です。即死ゾーンのその周りには熱線に体を焼かれながら虫の息になっている人がたくさんいました。水を求めて死んでいったといいます。

歴史は途切れなく続いています。一日一日、全てが少しずつ変化しながら時を刻んでいきます。私は、80年前にすべてが焼かれたこの場所で、サウナの熱と水風呂の冷たさを楽しんでいることが奇跡のように思えるのです。

広島と同様に原爆に破壊された長崎のサウナに入っているときも同じことを思いました。また、8月9日の朝、視界不良のために寸前のところで被爆を免れた小倉のサウナでも同様のことを感じました。

この夏で原爆投下から80年が過ぎます。人の一生分の長さです。当時の状況をはっきりと覚えていて、それを語ることができる人はもうすぐいなくなります。

生命体にとって死が必然である限り、そのことはどうすることもできないことです。体験者がいなくなり、力のある言葉で当時の惨状を語る人は消えます。原爆が昔話になります。

それだけにその昔話にリアリティを持たすのは、直接惨禍を体験していない私たちの想像力です。人間を愛するのなら、自分の子や孫に幸せを願うのなら、私たちはこの場所で空を見上げ足元を見るべきだと思います。

数千度の熱線で一瞬のうちに炭になる自分の姿を、折り重なった死体の上を歩く自分の姿を想像するのです。すべてを一瞬で奪われ、四方を炎で囲まれたときの絶望感を想像するのです。

そして、サウナや水風呂で熱や冷たさを楽しむたびに、そのようなことが自由にできる境遇にひたすら「ありがとう」を唱えるのです。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。