汚い話で申し訳ございません
家事をしていた妻が突然「きゃっ、あぁーっ」と声をあげる時があります。
足早に立ち去ろうとしている私に対して、少し怒りに満ちた「したでしょう!」の声が追いかけてきます。
「えっ、わかった?」
「当たり前でしょう。もう、早くトイレに行って!」
「ごめんごめん」
結婚してい以来、もう何十回も私たちの間で繰り返されたやりとりです。
悪いのは私です。でも言い訳をすると、そのおならは匂わないという予感がある時に放たれたものなのです。「これは本当にヤバい」という確信のある時はベランダに出てするなり、何らかの対策を取ります。
ベランダや玄関で放たれる私のおならは、本当に目に染みるぐらいの代物です。空気が湿っているのがわかりますし、マイナスの余韻がかなりの間続きます。よくアニメである黄色い色がついた気体のイメージです。
妻や子供たちと同じ部屋にいるときに私がするおならは、私の中でも「これくらいなら安全であるし、誤魔化すことができる」と思ったものです。
しかし、その思いはかなりの頻度で裏切られます。その度に妻があの叫び声をあげます。私は急いで部屋から出て行きます。「なぜだろう」と思います。
ヨーグルトを毎日摂り、野菜や果物も意識して食べる私は便秘知らずで毎日素晴らしいお通じがあります。時にあまりに色や形が良すぎて写真に収めたいという衝動に見舞われることがあるくらいです。もちろんしませんが。
それなのに、私のおならは体調が良くない感が満載なのです。もしかすると臭いと体調は関係なく、無味無臭だから健康であるというものではないかもしれません。
とにかく私は健康ですが、おならは病んでいそうな風味を持っているのです。私のハンドルネームの「イタチ」の由来の一つはそこにあります。
放屁するたびに
もっと爽やかな風味の(つまり無味無臭の)おならが出せたら、と思い続けてきた私ですが最近そんなことはどうでもいいと思う出来事がありました。
無味無臭ではなく、どんなに匂ってもおならを出せることは幸せであるという思いです。
私も知命を超え、周りでも病気に苦しむ人が現れ始めました。それどころか同窓会に参加すると、まずは黙とうから会が始まるようになりました。
友人の一人が、今直腸がんを患っています。
そこにがんができる可能性のあることは知っていましたが、自分の周りの人がそうなるとは想像したことがありませんでした。
今まで検索したこともなかったワードをネットに入れると、次から次へと知らなかった、いや意識的に見ようとしてこなかった情報や画像が現れます。「これ以上見たくない」と思いつつ、次から次に画面をスクロールしてしまう自分がいます。
街を歩くと、今まで何とも思わなかった「オストメイト」のトイレが目につくようになりました。直腸がんは場所や進行状況によっては人工肛門になってしまう病気です。
そうなれば排便はおろかおならをすることもできないでしょう。
そんなことを考えると私がベランダや玄関でこっそりと、または妻や子供に嫌がられながら行う放屁の1回1回が、とてつもなくありがたいものに思えてきます。
思いっきりおならができる幸せ、ギャグのようですが、本当にそんな幸せはあります。
おならだけではありません。体から出すすべての老廃物や液体、排便も排尿も発汗も射精も唾も鼻水も涙も、当たり前のように見えて当たり前ではなく尊いものであります。
出すだけではありません。私たちは呼吸をして水を飲み食べ物を咀嚼して太陽の光を浴びて生きています。
そのどれ一つができなくなっても、不便を感じるし、苦しいし、生きることができなくなってしまいます。
たくさんの要素が、何とも言えないくらいの微妙で複雑なやりとりを行なって、私たちの体を維持しています。
臭くても幸せ
私の臭いおならの話から始まりましたが、その行き先はいつもの場所になりそうです。すなわち「今こうやって生命を得て生きていることの不思議さ」です。
私たちの体は分解すると、そのほとんどが水素と酸素と炭素と窒素から構成されています。それらの元素が微量の他の元素と共にうまく組み合わされて有機物の塊となってこうして息をしているのです。
しかもその塊は固定されたものではなく、常に新陳代謝を行うことで流れの中に存在しています。どうしてそんな流れがものを考えたり、自分で思うように動いたりできるのか、私は不思議でたまりません。
しかし、私たちの意識も幸せも命もその流れの中に存在しています。その流れが少し狂うと、私たちの体は異変をきたしてしまいます。もともと人間の体もおならも、素粒子の世界では同じようなものだと思うのですが、病気になるとおならを出すことができなくなるのです。
今まで想像してこなかった気持ちが湧き上がってきます。「私はおならをすることができる」。
私は下腹に力を込めて思い切ってブリッと一発放ちます。いつもの臭いと共に「幸せだ」と「ありがとう」の気持ちが湧き上がってきます。
臭いのことなんか、正常におならができる幸せに比べるとどうってことありません。妻はそうは思ってくれていないようですが、私は今放屁するたびに本当にそう思い笑顔で放ちます。
幸せとは何をするかというより、どう考えながら行うかということだと思います。