厄介な癖
本当は幸福を強く実感してもよいはずなのに、なぜかモヤモヤがかった毎日を送ってます。人生も願わくば折り返し地点であろう場所を過ぎ、「このままずっとモヤモヤ生活をおくるのかい?」そんな内側からの声に押され、ブログで気持ちの整理をすることにしました。
こんにちは、大和イタチです。まだ公開していない(6月24日現在)状態で、私はいったい誰に向かって「こんにちは」とメッセージを発しているのでしょうか。不思議な気分になります。
「願わくば人生の折り返し地点」と最初の投稿に書きました。だから焦っている気持ちがあります。よくてもう半分まで来てしまったから。これと同じ時間が経過したとき、私はどこで、何を感じながら、どうしているのだろう、そもそも命が尽きる前後にそんなことを感じることができるのだろうかと思うから。
10歳になった時、子供心に「もう10年も生きたのか。残りはこの7倍ぐらいか」、20歳のころ「10歳の時10年間生きたと思った倍の時間が過ぎてしまった」、就職し、最初の1年が過ぎた時「これのあと40回近くの繰り返し、その繰り返しが終わる日、そんな日が来るのか」それぞれそんなことを考えていました。
卒業、就職、新たな仲間との出会い、友人の死、結婚、バイク免許取得、子育て、海外旅行、転勤、出来事の大小にかかわらず、しばらくするとその出来事を思い出し、「~からもう何年たってしまったのか」メランコニックな気分でそう感じずにはいられない私のこの厄介な癖。おそらくこのブログを書かざるを得なくなった大きな部分はその癖にあると思います。
旅行作家の宮脇俊三氏が「同じ場所を再訪するのは、時の経過の速さという恐怖を実感したいから」確かこのような内容のことを書かれていましたが、記憶の中の出来事への再訪で時の経過と残り時間を考えずにいられない私にとっては至言です。
前半と後半
折り返し地点の前半と後半では、見える景色ががらりと異なると思います。今、40半ばのオヤジですが、身体能力は今が最高であると思っています。実際はそんなことはあるはずありません。確実に筋力も反射神経も落ちているのですが、そのスペックを最大限発揮する機会が長い間無いため、限界値の低下に気がついていないだけだと思います。
おそらく遠くない未来に、日常生活の中で限界値を意識せざる負えないような場面に遭遇することは、周りの先達をみれば容易に想像できます。
体の小さいおじいちゃんがのろのろと歩いている。なぜもっとさっと進めないの、思ってはいけないことが頭に浮かぶことがありますが、おじいちゃんもかつては俊敏で逞しい青年です。人の背が縮む、歩行が困難になる、人がそんな状態になることを想像することすらできなかった前半の終わりですが、後半の終了直前は間違いなくこのおじいちゃんのようになっているでしょう。
身体状況は、今から未知の領域へ踏み込んで行きます。しかし、新たな地平に向かうのは体だけではありません。今の私の社会での立場、経済状態、そしてたった今もモヤモヤの中で知恵をひねり出そうとしている頭の状態。それらも同時に面倒をみていかなくてはなりません。「てはなりません」という言葉が出た時点で、私は何か悲観的なものを感じているのでしょう。これからの変化を楽しみにしていく時の言葉ではないからです。そのあたりの改善のためにも、私はブログを書く必要があるのかなと思います。モヤモヤから脱出するためには、想像力を使いながら自分の形をなくしていくこと、そんな予感があります。
ダーウィンがこんなことを記していたことを思い出しました。「生き残っていくのは、強いものでも賢いものでもない。変化に対応できたものだ。」
ダーウィンさんは100世代ぐらいを単位として言った言葉でしょうが、新しいことを始めモヤモヤ変化を求めている私には力強く響いてきます。