大規模接種会場へ
JR兵庫駅の改札を抜けると、ノエビアスタジアム行きバス乗り場を示す表示が目に入る。それに従って駅の北口へ向かうと、今度は立ち看板を持った人が。その人の脇の横断歩道を渡り、着いた市バス乗り場からは10分毎に大規模接種会場行きのバスが出ている。
私は数分でやってきたバスに乗り、ノエビアスタジアムへと向かう。車両は見慣れた白地に緑の神戸市バスのものであるが、ドア脇の電光掲示板に医療関係者への感謝の気持ちが表示されている。
バスは兵庫駅からJRの北側の道を通り新長田駅へと向かう。電車に乗れば一駅2分のルート、バスに乗ることはまずなく新鮮な気持ちになる。新長田駅のバス停には接種者専用のテントと椅子が用意され、それが待合場所になっている。
車内のアナウンスといえ、この待合場所といえ、接種者が歓迎されていることが伝わってくる。会場に到着し、前の出口から降車する。運転手から「ありがとうございます」の声が。こちらは無料で乗せてもらっている。ありがたいのはこちらのほうだ。慌てて「ありがとうございます」と返事する。
バスから下車する数十人の接種予定者を、その半分ぐらいの数の係員が待ち受ける。書類を確認し、受付まで案内してくれる。十数台ある受付カウンターの前には数名の係員がいて、自分が何番の受付に行けばよいのか教えてくれる。
コンピューターと情報を照合し、検温を終えるとそこから先は、普段観客としてこのスタジアムに来るときには入ることのできない場所になる。当たり前のことであるが、広大な観客席の下、地上階には広大な関係者用のスペースが存在する。
私は他の接種者と同じ方向に歩いて行く。通路を抜けると数百の椅子が表側に並んだ広大な空間が現れる。普段はいったいここは何に使われているのだろうと思う。
しばらく椅子で待った後、椅子2列分ずつ移動させられる。再び書類をチェックされ、医師から簡単な問診を受ける。私たちはその度に、この日のために接続された通路と部屋を通り抜ける。迷路の中にいるような気分である。
”大規模”な接種会場
それにしても、ものすごい数の人がこの会場運営に関わっていて、それは私の想像をはるかに超えるものであった。
私は当初、家か職場近くの医院で接種を受けようと考えていた。しかし、小さな医院はなかなか希望通りの日が開いていなかった。それに、ノエビアスタジアムで接種を終えたサッカー好きの同僚が、興奮気味にバックヤードが見れる魅力を語っていたため、私も2回の接種をここで受けることにした。
ここは、サッカー、ラグビー共にワールドカップの会場になった場所である。おそらく日本でも最大規模の接種会場であろう。その巨大な空間は、役割ごとに細かく分けられ、各場所には専門のスタッフが配置され、接種が効率よく行われるように誘導されてゆく。
医師の問診を終え、何度目かの廊下を抜け、少し広い空間に出た私は、ハッと我に返るような感覚を覚えた。1回目の接種も同じ場所で感じた、恐怖にも似たあの感覚だ。
それは「この後すぐ接種になります。腕まくりをしてお進みください」という係員の声を聞いた時に湧き上げってきた。
「もう後戻りできない」「私はこのままワクチンを打たれるという選択肢しか持ち合わせていない」
一瞬うち、私はヒヨコの話を思い出した。
いつどこで読んだものなのかは思い出せない。しかしその一部は強烈に脳裏に焼き付き、おそらく一生、私から消えることはない話である。
食肉産業について書かれた文章であった。
卵から羽化したヒヨコは雌雄の選別を受ける。メスは卵を産むため利用価値がある。卵を産めないオスはベルトコンベアーに乗せられる。そしてその価値を提供する。オスの”価値”とは、その肉体である。ベルトコンベアーの先にはシュレッダーがついており、オスのヒヨコは家畜の餌となる。
このような内容の文章であった。
この会場に到着してからここまでの一方通行の長い道のりが、オスのヒヨコが乗ったベルトコンベアーと重なった。
人が正気でいられるのは、「自分には選択肢があり、自分の人生は自分で選ぶことができる」と思えるから。事後的に見ると、一筋の人生しか歩めないわけであるが、少なくとも、今の時点で自分の人生が未来に向かって開かれていると思えることが、私たちが幸福を感じる担保となっている。
私にはもう、ワクチン接種を受けるという選択肢しか残されていない。
考えてみると、ありがたい話なのは間違いがない。
バスに乗った時から今まで、私はお客さんのような扱いを受けている。丁寧な言葉遣いで、分かりやすい案内をされ、会場のいたるところには無料の飲みものが提供されている。
莫大なお金をかけて、人を雇い、ワクチンを入手して、会場を設営し、国民のために、つまり私たちの健康のためにワクチン接種を進めている。なんていい国に住んでいるのかと思う。
しかし、あの瞬間に感じた恐怖感は何だったのだろうか。悲観的な男の単なる独りよがりだったのだろうか。
私は久しぶりに「座右の書」を取り出した。
社会制度としての身体
知と権力は近代において人間の「標準化」という方向をめざしてきた、というのがフーコーの基本的な考え方です。標準化はさまざまな水準で進行します。そのもっとも顕著なのが「身体」に対する標準化の圧力です。
内田樹著 「寝ながら学べる構造主義」 P92
私たちが普段、自由に行っているつもりの身体的運用のなかにも、実は近代以降、権力者によって国民をコントロールしやすくするために教えられたものが存在する。
明治以前では標準的な歩行法であった「ナンバ」も、近代的な軍隊を設立するにあたり不都合となり、学校教育を通じて改められたものだ。明治から150年経過した今、私たちは意識せずとも普通に、前に出す手と足が左右反対となる軍隊式の歩き方で歩く。これは、身体が権力によって変えられた例。
内田氏が指摘する「さまざまな水準の標準化」とは、いわば国家が国民を統制しやすい形に変えていくことであり、それは身体運用の他にも教育を通じて思想そのものにも行われる。さらに標準化の対象は、身体そのものも含まれ、ワクチン接種はその一環として行われている。
私は邪悪な国家が善良な市民を支配している、というような善悪の話をしたいわけではない。このような標準化は近代においては当然必要なことであり、それは大多数の幸福を生み出す仕組みでもある。
私たちは、衛生状態が整い、乳幼児の死亡率も低く、食べ物が溢れ、物質的にも豊かな世界を生きている。これは、間違いなく国民の標準化なくしては成り立たない世界である。
私が接種会場で感じた恐怖感は、未知な物、まだ慣れていないものの中へ組み込まれることに対しての恐れだったのかもしれない。
先日、アメリカの航空会社が、ワクチン接種を受けることを拒否した従業員を解雇する手続きに入ったというニュースを聞いた。
やはり、世の中には標準化に反対する一定の層が存在する。この従業員たちは、職を失うこととワクチンを受けないことを天秤にかけているのだ。
確かに、ウィルスの発見からまだ2年も経過していない。私もワクチンが開発されたとき「こんなに早くできるものか」と驚いた。後になって、重大な副作用が出るのではないかという不安は、2回の接種を終えた今、正直に言うとある。
世の中の圧力は、ワクチン接種へとむいており、もうすぐその証明書の有無が生活に影響しそうである。
今回、私は、不安を抱えながらも「標準化」の波に従った。無料バスに乗ってから接種を受けるまで、非常に心地よく過ごすことができた。なんてすばらしい国に生まれたのだと思った。
しかし、近代社会を経て現代に生きるということは、知らず知らずのうちに、私たちの心と体の一部をベルトコンベアーの上に差し出すこととトレードオフである、このことを思い出させてくれる。
それは、良い悪いということではなく、その中で私たちは幸せを享受し、人生の歩みを進めていかなくてはならない。
しかし、その現代の変化が物理的な人間がもつ時間感覚と比較して、あまりに早いとき、それが求める標準化に対して体が警鐘を鳴らしてくる、それを感じたワクチン接種であった。