薄い貨幣経済
私の生まれ育った場所は、ここから車で2時間ほどの場所にある。瓦屋根の集落があり、その周りには田畑が広がり、しばらく行くと農協の施設があり、駐車場の広いスーパーが地域の人々の集まる場所という典型的な日本の田舎である。
そんな田舎に私の父と母は暮らしている。父はもうずいぶんと前に仕事をやめて小さな船を買った。農業の傍らで、天気がよいとその船に乗って魚を釣りに出かける。合わせてデイトレーダーのようなこともやっていたが、「株は儲からない」といって今はほとんどしていないようだ。
作った米や野菜、釣った魚は、私たち家族や親戚、父母の知り合いの胃袋へと消えていき市場に出ることはない。その代わり、私の実家には野菜や魚をもらった人々から数多くの返礼品が集まる。
それはハムやジュースなどの加工品であったり、父母の栽培していない野菜であったりする。父母が消費しきらないそれらの返礼品は、私たちのもとへとやってくる。
父母の生活と比べて、私の家族はいかに多くの貨幣経済に依存して生活しているのかということが分かる。これは、貨幣経済が良い悪いの話ではない。ただ、自分で手に入れた食料品を中心にものが循環していく父母の生活を見ていると、少しうらやましく思うことがある。
スーパーで、無意識のうちに少しでも形のいい野菜を選ぼうとしている自分に気付くときがある。加工品を買うとき、名前の知れたメーカーの方を手にしている自分がいる。
私たちは、知らず知らずのうちに商品として”価値があるもの”を選択しようとする。生命を維持するための食料として考えたとき、形がよかったり名が通っているものとそうではないのもの間には、大した差異は存在しない。
私たちは貨幣経済というフィルターを通じてでしかモノの価値を判断できなくなっている。私の両親の周りに見られるモノの循環を見ていると、価値は一つではないことがわかって安心する。
私の家族はずっとそんな両親の作った米を食べ続けてきた。もちろん、子どもの頃は私も米作りに関わった。実家を出てからは、時間の都合がつくときに手伝った。
祖父母と両親で管理していた田んぼが、祖母と両親になり、そして両親だけになった。「お前が気の向いたときにだけ手伝えばよい」いつもそう言っていた父親が4月の始めに電話をかけてきた。
「田んぼに肥料をまいてくれないか」
私にとって初めての、親からの援助要請であった。
ネオゴールデン
「いったいどうしたのだろう」と思ったが、どうやら父親は神経痛がひどくて長時間歩くことができないらしい。運動神経がよく、足も速い父親であったが、最近は白髪頭になり体格も少し小さくなった気がする。
コロナのためここのところ会う機会がめっきり減ってしまった。それだけに、会うたびに両親の加齢の度合いが増している気がする。もっぱらこれは私自身に対してもそうであるのだが。
4月中旬の日曜日、私は実家に帰り、父親と軽トラに乗り込んみ田んぼへと出かけた。荷台には「ネオゴールデン」という肥料と、それを撒くための手動の散布機「まくぞーくん」がのせられている。
田んぼの端に軽トラを止めて作業の準備に取り掛かる。かつては田んぼと用水路の間に稲木小屋があった。稲刈りが終わると、この小屋から稲木を取り出して組み立て、刈り取ったばかりの稲束をかけていく。
天日干しの稲は手間暇はかかるが、機械乾燥のそれと比べて味が美味しい、少なくとも私はそう思いながら食べていた。それは私の家族も同様であった。しかし、農業人口の高齢化と共に周りの田んぼからは稲木が徐々に消えて行き、私の実家も天日干しをやめてしまった。
かつては一家総出で刈り取った稲を稲木にかけていた。叔父や従妹たちも手伝いに来たこともある。そんなことを思い出しながら、私はネオゴールデンの入ったまくぞーくんを背負い田んぼの中へと入っていく。
水の入っていない田んぼをゆっくりと歩きながら、左右にまくぞーくんのノズルを振って肥料を均等にまいていく。普段街にいると伝わってこない優しい感覚が足の裏から伝わってくる。子どもの頃、稲刈りの終わった田んぼは子どもたちの遊び場であった。意味もなく走り回るだけで楽しい場所であった。そんなことを思い出しながら肥料を撒く。
遠くにいる父親は、私のほうを見ている。「こんな簡単な作業が今の父親にはできないのか」と少し悲しくなる。10キロの肥料を背中に背負い、ゆっくりと歩きながらまいていく。肥料がなくなれば追加して、場所を変えながら同じことを繰り返す。小1時間で終わる作業であった。
よく晴れた春の午後、私は春の風を体で受けとめ、半分何かを考えながら、半分は頭を空にして、ゆっくりと田んぼを歩いて行く。心地良い時間が過ぎていく。普段は農業に関わらないものにとっては贅沢な時間に感じられる。
作業が終わり、私たちは家へ戻った。母親が畑で採れた野菜を準備してくれていた。私が持ち帰るためのものだ。わずか4時間の滞在時間で、私は元来た道を野菜と共に引き返した。
絶妙な距離
ネオゴールデンを撒き終わると、そこから1月以内に次の肥料が待っているらしい。ちょうど5月の初旬に当たる。
「ゴールデンウィークのどこか1日、帰ってこようか」
私は父親に言った。
今までなら「好きにしたらいい」と言っていた父親であるが「そうしてくれるとありがたい」と返事した。
「作れなくなったら他の人に任せてもいい」彼は付け加えた。
実際に私の実家の周りでも、後継ぎがいないため田んぼを維持できない家が増えてきている。そういった作り手の無い田んぼを引き受けて、稲作をしてくれる法人がいいくつか現れている。
田んぼをそういった農業法人に貸すのであるが、昔の地主と違いお金も稲も手元には入らない。田を放置すれば数年で荒れてしまい、米作りどころではなくなるし、雑草を生やすと周りの迷惑にもなる。それを防いでくれるだけでもこういった法人はありがたい存在なのである。
父親は私が田んぼをつくることを期待していない。少なくとも私に対する発言はそうである。しかし、自分が親から引き継いできたものを次の世代へと渡すことを望まない人間は、それほどいないであろう。本心は、私が作ってくれればうれしいと思う。
私のほうはどうだろう。
確かに、たまにかえって農作業をすることは気持ちがいい。田舎の空気を吸いながら、草の香りを感じながら柔らかな土を歩くことは、私が都会で忘れていた感覚を取り戻してくれる。
それに、結局人間は食べ物があれば生きていける。安全な米や野菜を得ることは、自分の人生を保証することでもある。私はまだ、それらの確保の仕方、つまり作り方をほとんど知らない。しかし、目の前にそのチャンスはある。
私の住む場所と実家が5時間も離れていたらあきらめはついたであろう。実際は車で2時間と少し、運転するのが億劫な時は電車で帰ることもできる。本当に絶妙ないい感じの距離にある。
このブログを読み続けてくださる人はお分かりだと思うが、私の人生は確実に転機を迎えつつある。
モヤモヤをなくすために始めたブログは、もうすぐまる3年を迎えようとしている。モヤモヤは今、ワクワクにかわっている。
語学、通訳案内士、サウナ、明石焼き、そして農業。いろいろなドットがつながり始めている。まだ結論は見えないが、何となくうまくいきそうだという感覚はある。
私はこれからもブログを続けて、これらのドットの行く末を考えつづける。そして、時を見て、もう一つの大きなドットについての話を始めたいと思う。