あれから3週間
先月、実家の田んぼに「ネオゴールデン」という肥料を「まくぞーくん」という道具を用いて撒いた話を書いた。米作りに関しては「お前の好きなときに気晴らし程度にやったらいい」というスタンスであった父親から救援要請があったのだ。
父親はここひと月ほど、神経痛に悩まされていた。腰から下の数カ所が、同じ姿勢で立ったり歩き続けると痛くなるらしい。「まくぞーくん」に20キロの肥料を入れて田んぼを歩き続けることは、かなりの苦役だ。そのようなわけで、私の出番が来た。
前回実家を去る時「ゴールデンウィークも来ようか?」と聞くと、「そうしてくれるとありがたい」と父親は言った。よく効くと噂の鍼灸に行ってツボを教えてもらい、自分では1月ほどで神経痛を直すつもりでいたようだ。しかし、追加の肥料を撒くまでには時間が足りない。
私は今まで両親の作った米を何十年も食べ続けてきて、そのようなことさえ知らなかった。そのようなこととは、米作りには、いつ、どんな作業をしたらよいのかということ。
「ネオゴールデン」や今回撒いた「らくいち」は今まで何度も見ていたはずである。しかし、私の頭の中にはそのような記憶はなかった。これは覚悟の違いだと思う。父親は祖父母から受け継いだ田んぼを守る気持ちがある。私は、それに甘え消費する側にいる。
当たり前のことであるが、人は年をとっていく。両親も田んぼで働けなくなる日がくる。私は、子どもの頃の祖父を思い出した。力強い人であった。いつも田畑に出て仕事をしていた。祖母もそうであった。私が子どもの頃口にした米や野菜は、ほとんどこの二人によってつくられた。
時が経ち、その役割が私の両親に変わった。今でも実家に帰ると、大量の米と野菜を持ち帰る。私はたかだか数千円のお菓子を渡すだけだ。それでも両親は喜んでくれる。ありがたい話だ。
記憶の連鎖
三週間前、私は穏やかな気候の中、春を感じながら「ネオゴールデン」を散布した。隣の田んぼに咲く蓮華の花が綺麗だった。穏やかな風が優しく吹いていた。足の裏から伝わる田んぼの柔らかさが気持ちよかった。
本日は、晴れていた朝の天気が今にも崩れそうだ。一昨日はかなりの雨が降ったという。田んぼは一見して、前回の様子と異なっている。全体的にぬかるんでいて、所々に水たまりが見える。
私は「らくいち」を入れた「まくぞーくん」を背負い、田んぼの中へ入った。
畔を見ると、父親が立てた棒が等間隔で並んでいる。その棒と棒の間を目安に均一になるように肥料を撒いていく。
いきなり「ズボッ」と足がぬかるみに取られる。力を入れて足を抜きながら、ノズルを持った右手を左右に動かしていく。「サーッ、パラパラ」という音と共に「らくいち」が田んぼに散らばっていく。
前回撒いた「ネオゴールデン」は茶色い色をしていて、匂いからしても有機物を加工して作ったような肥料であった。今回の「らくいち」は白黒の固そうな粒状の肥料である。おそらく植物の生育に必要な窒素・リン酸・カリをバランスよく含んだ化学肥料であろう。
私は高校で受けた化学の授業を思い出した。中身はすっかり忘れてしまったが、先生は「化学のおかげで肥料を合成できるようになった。それが農家から重労働を解放した」と言っていた。
「昔は落ち葉や草を集めて発酵させて田んぼの肥料にしていた」祖父母が言っていた気がする。確かに重労働に違いない。時間も筋肉もどちらも必要である。今は、背中の「らくいち」を撒けば済む話である。
それにしても普段しないことをすると、数十年の時を超えて、昔耳にした言葉がよみがえってくる。すっかり消えてしまったと思う記憶が、思いがけないタイミングで現れる。
あの化学の先生は、当時、今の私と同じぐらいの年齢であったと思う。職員室でタバコをおいしそうにふかしていた。たしか銘柄は「マイルドセブン」だった。どうしてそんなことになったのかは分からないが、一度家に短時間おじゃましたことがある。その時、中学生ぐらいの息子さんがいたような気がする。居間にギターがあった。
背中に背負った化学肥料をきっかけに、30年以上前の記憶が次から次へと連なってやってくる。
私はこうして記憶を言葉として表している。それでは、その記憶のもとになった現象と出会ったときはどうであったのだろうか。
当時の私が、言葉として分節できた部分だけが記憶になり、残りの部分は消えてしまったのではないか。人が幼児期の記憶を持たないのは、分節するための言葉を獲得していないからではないのか。そのようなことを考えてしまう。
「私」をつくっているのは「ことば」である。最近、よくそのように考える。
身の回りで起こる無数の現象の中で、私はある特定の部分のみをことばによって切り取っている。切り取ったことばは蓄積され、私の歴史を作る。それらは絶対的ではなく、後に獲得した言葉によって解釈が書き換え可能である。
今日思い出した化学の先生や祖父母は、違うことを言っていたのかもしれない。しかし、こうして肥料を撒きながら、この瞬間頭によみがえった言葉は圧倒的なリアリティーを持つ。
名前とは裏腹に…
田んぼのぬかるみは予想以上に深い。そういえば父親は「雨が降ったから別の日の方がいい」と電話で言っていたが、私にも都合がある。今回のゴールデンウィークの内、半分は仕事が入っていたし、イタリア語の教室も休みたくないし、散髪の予約をキャンセルするのも面倒くさい。
一歩一歩前に進みながらノズルを左右に振る。粒の形状や比重が異なるためであろう、前回の「ネオゴールデン」と比べて明らかに背中の肥料の消費が遅い。
そのうち右足が濡れてきた。続いて左足。どうやら長靴にひびが入っていたらしい。この前と同じ靴だが、前回はよい踏み心地の田んぼであったのでそんなことに気がつかなかった。
泥水は容赦なく両方の長靴に入り込んでくる。歩くたびに靴から音が出る。ジーンズの裾まで濡れてくる。リーバイス610を履いている。
まだ610をアメリカで作っていた頃に買ったものの、形が気に入らなくて放置していた。他のアメリカ製リーバイスはすべて履きつぶし、捨ててしまった。この610だけが残り、農作業に使われている。もうMade In USAのリーバイスは手に入らない。私にとって、これが最後のリーバイスであろう。
「らくいち」の”らく”は漢字の”楽”である。私はその「楽いち」を悪戦苦闘しながら田んぼに撒いている。空からはぽつりと、小粒の雨も落ちてきた。相変わらずのぬかるみに足を取られながら、だるくなった右腕を左右に振りながら、田んぼの端から端まで往復していく。
周りの田んぼを見渡してみる。私のような人はひとりもいない。それはそうだ。別に「今日絶対にするべき作業」ではないのだ。付近の天候の良い一日を選んで「楽」に行えばよいのだ。田んぼの近くに住んでいればそれが当たり前。2時間以上かけてここへ来る私は、そういうわけにはいかない。
私は何とか「らくいち」をすべて撒き終えた。作業内容は3週間前と変わらないが、疲労度は3倍にも感じられた。それでも祖父母の時代と比べると、取るに足らないような疲労感であろう。
草や葉っぱを集めて運び、そこに牛糞や鶏糞を混ぜて発酵させる。そうして手間と時間をかけて肥料ができる。今度はその肥料を田んぼまで運び、全体に撒いていく。
化学の先生が言ったように、化学肥料はそのような時間と手間を小さな粒の中に濃縮してしまう。もし、草や葉っぱを集めるところから行わなければならないとすれば、私の両親は祖父母から田んぼを引き継がなかったであろう。たかが「らくいち」で音を上げる私にも到底無理な話だ。
ただ、疲労を感じながらももう一方で充実感を感じている自分の存在も、確かにある。「時間があれば肥料を自分で作ってみるのも楽しいかも」と心のどこかに思う気持ちもある。
寺尾玄の言葉
今の仕事を続ける限り、私にできることは、こうやってたまに帰省して手伝うことだけである。もし、他に食べていく手段があれば、状況は変わる。例えば通訳案内士を週3日程度して、残りは動画やブログ、配当金などの不労所得からのフローという道ができれば、私は面倒な農作業も楽しみながらできるかもしれない。
今の仕事は悪くはない。このまま続ければ、たぶん死ぬまで普通の暮らしはできる。子どもたちも大きくなり、手もかからなくなった。楽な暮らしだ。
しかし、私は私と同世代、バルミューダ創業者寺尾玄の言葉を思い出す。
「楽しいときはラクじゃなくて、ラクな時は楽しくない」
私は、物質的な面では「ラク」な暮らしをしている。それは、彼に言わせると「楽しい」暮らしではない。共感できる。
この3週間で行った2回の肥料撒きの内、今こうして文章にしながら「楽しかった」と思えるのは「ラク」ではなかった方なのだ。「ネオゴールデン」の3倍疲れながら撒いた「らくいち」の方が、楽しい記憶として私のなかに残る。ラクではないほうが、忘れていた30年前の記憶を取り戻してくれた。
往々にして人生はそんなものだと思う。ラクではないほうが楽しい。たかだか肥料撒きでも、振り返ってみればそうなのだ。
心が整っていればそれは正しいと思う。私のモヤモヤは解消されつつある。ラクではないほうに飛び出しても楽しく過ごせそうな状態は、それほど遠くないはずである。
この後、疲れた体に鞭打ってさらに畔の草刈りを行った。これも大変な作業であるが、考える要素も多いのでまだ別の機会に記事にする。疲れて、考えて、よい一日であった。