私の資格
「次は何の資格を目指すんですか」
三浪の末イタリア語検定2級に合格した話を周りの人にすると、こう聞き気返されます。英検やら全国通訳案内士やら、ここ5年ほど資格の勉強に取り組んでいたので、職場の人々は私のことを資格マニアのように思っているのかもしれません。
実際の所は、私が英検1級とイタリア語検定2級を取得しようと思ったのは、このブログを書き始め、先の見えない語学学習に悩まされ続ける自分に気がつき、そのモヤモヤにさよならするためでした。全国通訳案内士は英検に合格し、英語の1次試験が免除になることを知って受けたものでした。
結果をいうと、これらの資格を得た後も、私は現在進行形で自分の語学力の無さに悩み続けています。資格を取ろうと取らまいと、言葉の獲得には終わりがなく、満足できるかどうかの基準は自分の心の中に存在するからです。悩みは尽きませんが、そのことが分かっただけでもこれらの資格を取ってよかったと思っています。
私は資格マニアでも何でもなく、もうこれ以上受験をするつもりは今のところありませんが、最初に書いたような質問を受けると「一級立ち呑み師を目指す」と言うことにしています。
いくら資格大国の日本でも「立ち呑み師」なる資格はあるはずもなく、これは私が勝手に自分の中に作ったものであります。
私はお酒は好きですが、特別な場合を除いて長々と飲み続けることは好みません。若い頃はしばしば先輩たちに終電が無くなるまで連れられていました。それはそれでありがたいことですが、正直言って酔っぱらいの同じ話を聞くことに途中から気持ちが萎えるのを感じていました。
仕事の後はサッと1時間ほど飲んで話して、あまり酔わないうちに家に帰り、続きを飲むなりご飯を食べるなりというスタイルが性に合っています。ですから、そんな私に立ち飲みは都合がよく、週に1~2回私は馴染みの場所に寄って帰宅します。
そんな私が考える「立ち呑み師」の資格なんですが、今頭の中にある基準はこんな感じです。取得が簡単な方から書きます。
四級
一人で初めての店に行き、そこで粗相をすることなく、自分もいい気分になって帰ることができる。
三級
何回かその店に通ううちに、常連の立ち呑み師に顔を覚えてもらう。常連さんと会話を楽しむことができる。
二級
店の人に名前を覚えられる。一人で店に入っても話し相手がいる。初めての客に対して、優しく店のことを教えてあげられる。
一級
店に来ることを周りから期待されている。どんな時でも楽しく酒を飲むことができる。会計を頼むと、周りから「もう帰っちゃうの」という反応が起こる。
以上、私が妄想の中で勝手に作った資格ですが、一度言語化するとその概念は力を持ち始めます。私は今真剣に「一級立ち呑み師」になりたいと考えています。
それは、上に書いた「来ることを期待され、その場を楽しみ、惜しまれながら去っていく」定義が、立ち飲み以外でも全ての時間、すなわち自分の人生がそうあって欲しいと願うからです。
この世に生まれることを期待され、人生を楽しみ、どんなに長生きしてもその去り際に惜しまれるというのは理想の生き方であると考えます。そんな生き方を立ち呑み師という資格と重ね合わせて、今日もまた私はカウンターに立ちグラスを傾けるのです。
チャレンジ
さて、私は今、馴染みの場所でどのレベルの立ち呑み師なのか自問しています。上に書いた定義からすれば「二級」あたりではないかと思われます。
しかし、この資格は英検や簿記と異なり、日本のどこでも通用するというわけではありません。酒呑みが個々の店との間で築き上げていく関係なので、当然店が変われば関係性も変わります。
Aという店で一級立ち呑み師であっても、初見の店の暖簾をくぐる時、そこは四級の試験会場になるのです。普段は一番の馴染みの店を中心に数軒しか行かない私ですが、先日思わず「四級の試験を受けたい」と衝動的に思った店があったので、その暖簾をくぐってきました。
その店は神戸の繁華街の外れにありました。古い建物も点在する地域ですが、その中でも圧倒的な古参のオーラを放っており、私は一度前を通り過ぎましたが、「今入らなかったら次はないぞ!」という強い重力に引き戻されて、思わず扉を開けてしまいました。
ガラス戸を通して中が見えますが、中年以上の男性客ばかりが皆楽しそうに話をしています。明らかに常連客、私の定義で言えばこの店の二級以上の立ち呑み師たちです。
ちなみにこの時は土曜午後4時前。昼飲み時間と通常の時間の間に、これだけの立ち呑み師たちで賑わっています。この引き戸を引く勇気を得るために一杯引っ掛けたい気分でしたが、私はシラフで戸に手を掛けました。
入店すると一斉に先輩立ち呑み師たちの視線を受けます。しかしそれに鋭さはなく「おっ、友達来たんかいな」的な視線です。私も無言で「どこで飲んだらよろしいですか」という視線を店主らしき人に送ります。
しかし、ご主人も奥さんもそんな私と目を合わせてくれません。すかさず一人の立ち呑み師が「ここ空いとるで」と示してくれます。そこは、説明しにくいのですが、カウンターの裏側的な場所で店の人以外入れなさそうな雰囲気の所でした。
常連さんのファインプレーで居場所を得た私はしばらく店内を観察します。歴史のある立ち飲みでは一般的なことですが、店内にわかりやすいメニュー表はなく、こういう場所では常連さんの様子を観察しながら注文をするのです。
芸術作品
店主の向こう側に日本酒の瓶が並んでます。その店で中心となっている酒だと判断した私は、その酒をコップで注文しました。あては黒板のメニューの中から「板わさ」を選びました。
ちびりとコップ酒を口にしながら周りの様子を観察します。常連客たちはあるご老人を中心に会話を楽しんでいます。
「80歳の同窓会での恋話」「この歳になっても気が合わない兄弟」などのキーワードが現れます。北陸地方出身者による「昔の地元トーク」も盛り上がっています。
地理情報など明らかに間違っていることもあり、「それは・・」と反応しそうになりますが、そんな無粋なことができるのは三級以上になってからです。それに会話を楽しむ立ち呑み師にとって「正しさ」の優先順位は低くていいのです。
一人お客さんが入ってきました。私の隣に立ちます。店主は何も言わずビールの中瓶とコップを出します。「カッコイイ!」ここまでになるためにはどれぐらいこの店に通い続けたのでしょうか。私はお互い無言のうちに行われる、二人の息の合った所作に感心しました。
もう一人常連と思われる人が入って来ました。店内はいっぱいですが他人のタバコとコップが置かれたカウンターに立ちます。そして「もう外で寝とるからな」と言い、そこで飲み始めました。
つまりこういうことです。そのカウンターの上のタバコとコップの持ち主は、すでに酔っ払って店の外で寝ているので、それを知っている常連客は満員の店内でその場所を使ったのでした。そういえば店に入る前に、隣接する建物との間にある椅子に座ったまま寝ている人を見ました。
その寝ていた老人が店に入って来ました。「なんか頭に落ちてきたぞ」と店主に言います。「ああ、それは温度計だ。またつけとくわ」。老人は何も言わず元の場所に戻って再び眠りにつきました。
このように、古い立ち飲みには、店主と常連客が作り出す雰囲気、間、空気の流れ、ストーリーがあります。それらは酒の染み込んだ古いカウンター、かつては商品が並んでいたであろう空になった古い棚、平成前半のアイドルやスターが写る色褪せた販促ポスターなどと共に熟成されていきます。
このような店は、時間をかけて作られる唯一無二の芸術作品だと考えることができます。多くの飲食店は、開業から3年以内に閉店し10年続けば長い部類に入ります。そんな中で、趣のある立ち呑みが時代の波に耐えながら少しづつ形作られていくのです。
酒屋に併設される立ち飲みの中には50年、60年と続いてきた店もあります。私がこの日「四級試験」を受けたこの店もそうで、10年や20年では絶対に作るのこのできない芸術作品であります。
私は、ほんの少しであってもその作品を構成する一部になれたことに喜びを感じて、ほろ酔い気分で店を後にしました。
