暗さの裏にあるもの

読者の皆様へ

私は時々自分の書いた記事を読み返します。それが、このブログを始めた目的であるからです。

自分が何を考えているのか、頭の中で考えるよりも、一度アウトプットをして見える形にしてやると、自分の思考が明確になります。それに、アウトプットするプロセスそのものが考えるということであり、文章にしなかったら生まれなかった自分の思いに出会うことができるからです。

私はモヤモヤを抱え、漠然とした不安と共に生きてきました。ひどくなったのは40代に入ってからですが、根本的には私は若いころからネガティブな人間であったと思います。「何かよくないことが起きたらどうしよう」とつねに頭のどこかで考えていました。

自分の生活を見てみると何一つ不足していないと思います。家族がいて、仕事があり、趣味もあり、何より健康です。モヤモヤを抱える理由などないはずです。

この矛盾した状態をどうにかしたくて、私は文章を書き始めました。大和イタチというアルターエゴをつくり、彼と私、そして私の想像上にあるこのブログを読んでくださっているであろう読者を意識しながら、定期的にキーボードをたたいています。

したがってこのブログは自分に当てて書いていることになります。モヤモヤから解放されて、これからの人生を「生きる」ために書いています。

自分で読み返すことが目的なので、コメント欄は開いていません。ただ「読んでくださっている人がいる」という思いがあるから、それらの人々のするであろう反応を思い描くからこそ、文章を前に進めることができます。

だから直接つながってはいませんが、私の独りよがりで文字ばかりのブログを読んでくださっている皆様には本当に感謝しています。

いつか、条件が揃えば、コメント欄なりツイッターなりで(まだ始めていませんが)つながることができたらと思います。ありがとうございます。

読み返して…

さて、こうしてたまに自分が書いた文章を読み返してみると気づくことがあります。それは、やはり自分の性格はかなり暗いということです。

私の考え方の根本に潜んでいるのは「無常観」であると思います。そして、その無常観の最終的な行き先は当然「死」となります。

「メメント・モリ」という言葉があります。「死を忘れることなかれ」と訳されますが、死は人生において確実なことであり、そのことを忘れずに生きろという意味です。

死を意識しながら生きること、そのこと自体は大切なことで、それがあるからこそ生が輝やいてきます。

少し前にバルミューダを創業した寺尾玄さんの著書を読みました。彼の座右の銘はLife is Shortで「もし人生が3000年あるのなら、私は今日こうして働かずに昼寝でもしている」と語っていました。彼の生の輝きを伝える素晴らしい言葉です。

確かに死の存在は生きるための原動力になるのですが、私の場合、死を意識するほうに気持ちが引っ張られ過ぎている、そんなことを過去の文章を読みながら感じています。

3年前の書き始めの記事と比べると、確かに最近の記事は暗さが少なくなっています。明石焼きの店を始めようとしたり、全国通訳案内士の勉強をしたりと、前に向かっての行動も伴っています。

行動をすれば現実が変わってきて、そのことが新たな行動を起こすきっかけになる、このことを実感を伴って感じています。それは、とても好ましいことで、ブログを始めたことの効用でもあります。

しかし、そんな中にもどこか冷めた自分がいます。どうしても、自分が行おうとすることと死とを比べようとするのです。

「どんなことをしたとしても、私の死後には私の存在しない時間が数億年と流れていく」

そんな風に考えると、エネルギーが最大の状態で行動できなくなります。死を意識することは大切なのですが、私は考えなくてもよいことまで考えてしまいます。その結果、元通りの暗くてモヤモヤした自分が現れます。

最近はワクワクすることが多く、自分でもいい感じの人生を過ごしていると感じています。それでも、この「死に引っ張られる力」は強力であり、それが続く限り、私はこうして文章を書き続ける必要があります。

それにしても、生まれる前の数億年は知らないくせに、どうして死んだ後の数億年に心乱されて暗い気持ちになるのでしょうか?

実はこんなキャラも…

このように、基本的にネガティブで暗い性格をしている私ですが、その奥底には別の性格も潜んでいます。ここでは、私が共感でき、自分の中で伸ばしていきたい3人のキャラクターについて書いてみようと思います。

島田珠代

たまに吉本新喜劇を見ますが、一番心の中の私に近い人物が島田珠代さんです。彼女はとにかく落ち着きがなく、喜怒哀楽の表し方が極端です。そして大切なことは、その極端な喜怒哀楽の表出は偽りのそれであるということです。

彼女は、突飛なセリフを極端な声のトーンや身振りで表しますが、観客は劇の中でもそれらは偽りの気持ちであると分かっています。「ああ、またあんなアホなことやって」と面白がります。

私は自分の頭の中や独り言で「島田珠代的な思考の展開」を行うことがあります。性格の異なる複数の人物を短時間で演じてみたり、下品な行動を考えてみたり。

すると、偽りであっても、それらの言葉使いが現実の気持ちに反映するのを感じることができます。具体的には、暗くてネガティブな私でも、劇中の島田珠代のように明るくて愛すべきアホキャラの気持ちになれるのです。

気持ちが落ち込んだときこそ、島田珠代のように誰かの両足の間から顔を出し、股間に向けて「チーン」と指をはじく自分の姿を想像してみるのです。元気が湧いてきます。

江頭2時50分

お酒を飲んで酔っ払うと「オレは結局江頭2時50分になりたいんだ」と妻によく言います。それは、バカになり切れない自分に対していらだちを感じていることの告白です。

私はそれほどテレビを見ない人間なので、芸能界にも疎く、江頭2時50分さんについて詳しいわけではありません。しかし、彼がただの狂人を演じるバカじゃないことは分かります。

江頭2時50分は確固とした自分を持ちながら、もう一方では針を振り切るような道化者になります。どちらが本当の彼なのか、それはどうでもいいことです。大切なのは、どちらも江頭2時50分であるということです。

私には道化者としての彼のようになりたいという衝動があります。言い換えれば、後先考えずに、この一瞬に全てをかける生き方です。しかし、衝動はあっても行動に移すことはなかなかできません。

彼のように極端じゃなくてもいいのですが、自分の針を反対側に振りたいという思いは常に持っています。

Mr. Bean

私の非言語な部分でのメンターになっているのが彼です。基本的に不機嫌で社会性のない彼は、言葉をほとんど発しません。

しかし、表情や体の動きは誰よりも豊かで、彼の身体運用は思考そのものであると感じることがあります。

Mr. Beanは30年ほど前に大ヒットしました。その当時は何も考えずに見ていました。今、こうして自分のことを考えながら文章を書いていると、彼は音声以外の言葉を使って思考をしていると思うようになりました。

私は彼を意識しながら表情をつくったり、体を動かすことがあります。彼のマネをすると、彼の気持ちと共感できるような気がします。

私は語学の沼にはまっている人間です。語学で苦しみ、語学で喜びを感じてきました。そんな私に彼は、音の振動、インクの染み、ディスプレイの濃淡、つまり私たちが「ことば」と考えるもの以外に思考への手掛かりがあることを教えてくれます。

私の奥底に潜む三人のキャラクターについて書きました。三人ともコメディアンです。自分のことを暗い性格だと思いますが、これからこれらのキャラをうまく活用すれば希望も見えてきます。そのためにも、私はブログを書き続けます。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。