文章を書くこと
自分の心を調整しようと思いブログを書き始めたのが、2年前の初夏でした。以来、当初と比べペースは落ちているものの、何とか週1回程度は更新を続けることができています。
文章を書くことは自分の頭の中を目に見える形で理解することです。人に読んでもらうことを第一にした文章ではないため、ブレインストーミングや構成を考えることなしに、パソコンの前に座っていきなり書き始めます。
書いて行くうちに、ある言葉から連想される思いが湧き上がり、別の話へと展開していき、書く前には思いもよらなかった着地点に到着します。
私はこのブログで「~です・ます」調と「~だ・である」調の両方を使って書きます。これも、キーボードに手をのせて、何となくその時の気持ちに合う方で書き始めます。
文章を書き終えた時、読み返して「私はこんなことを考えているのか」と新鮮な気持ちになることがあります。新しい自分の発見です。これも「ですます」「だである」どちらを選択するかによって変わってくるでしょう。
そう考えると、文章をとにかく書いてみる、言葉を選ぶ、こういった動作の一つ一つが、今までになかった自分を作り出していることが分かります。
体を構成する細胞の一つ一つは、分子的に見れば半年ほどですべて入れ替わり、元のものは残っていないと言います。私の体つきや顔の表情は同じようであっても、それを構成している物質は全く異なるものなのです。
こう考えると、私は物理の世界から見たら、物質の流れが一時的にとどまる入れ物のようなものであって、実体がないことが分かります。物体が一時的に集まって、しばらくして拡散していく。その出会いと別れの場所が物理的な私です。
私の心も、体と同じような仕組みなのではないかと思うことがあります。つまり、私が言葉を使うことで新しい私の心が常に作られては消えているということです。
私が耳にする言葉、読む文章、そしてそれらインプットしたものを話したり文章に記したりするうちに、新しい心ができ上っているのです。そしてそれら言語活動の中で、私が思うに「書く」という作業が自分を一番大きく変える力があると感じています。
2年間文章を書き続けてきて、2年前には想像つかなかった気持ちになっています。思い出してみると、文章を書き始める前である5年前と3年前では、それほど自分の心の中身は変わっていないませんでした。同じように「なんで私は…」と思いながらモヤモヤする日々を送っていました。
しかし2年前と今の私は明らかに心の状態が異なります。明確には表現しにくいのですが、日々の暮らしの中のワクワク感が増えてきた、そんな感じがします。書くことで心が整理され、目の前のもののとらえ方が変わってきたのだと思います。
どう変わった?
具体的にもののとらえ方がどう変わったのか考えてみたいと思います。いくつかキーワードを上げてみます。
~ねばならない ⇒ ~でもいいか
「~ねばならない」という強迫観念に私は苦しみ続けてきました。その代表は語学です。もう20数年来、私の上に乗っかり続けてきました。
英語に加えて、イタリア語と台湾語を始めてしまいました。「とにかく効率よく時間を無駄にせず学習を継続すること」私は、忙しい仕事の合間にこれら3つの語学学習を行ってきました。
冷静に考えてかなり無理のあることです。仕事で使う英語はいいとして、全く使用しない2つの言語を隙間時間を見つけて学習するのです。語学は継続とかけた時間が重要です。学習が途切れ、また再開、思い出すうちにまた中止。
何十回これを繰り返してきたことでしょう。しかし「今やめたら今までやってきたことが無駄になる…」この根拠のない思いがあるため、やめる勇気が出てきません。まさに「語学の沼」です。
そんな「~ねばならない」にサヨナラしたくて検定を受けることにしました。去年、英検1級に合格しました。「これで楽になれる」と思いましたがそんなことはありませんでした。
語学に終わりはないからです。私の周りには相変わらず数多くの「理解しがたい英文」や「適切な言葉にできない英語の言い回し」が溢れています。
考えてみると私の母語である日本語でも同様です。自分の書いた文章を読み返してみて、貧しい展開力と陳腐な言い回しにガッカリすることが多々あります。
自分のマインドセットを変えるしか抜け出す道はないと思いました。
私は台湾語の学習を一時中止しました。そして語学学習に関しては「少しできただけでもいいか」と思うようにしています。
面倒くさそう ⇒ 借方・資産は?
心がモヤモヤしていると、何をするにしても「面倒くさそう」という気持ちが先に来ます。そして、そのような気持ちで何かをすると、本当に面倒くさく感じてしまうものです。
昨年、ひょんなことから学習することになった簿記は、こんな私の考え方を変えてくれました。
日商3級なので、簡単な内容しか学びませんでしたか、複式簿記の持つ「一つの取引には、必ず二つの要素がある」「それぞれに分類された要素は、最終的にPL/BSの上で綺麗に一致する」という特性は、私のものの見方を変えてくれました。
以来、私はネガティブなことに出くわしたとき「この出来事の資産・借方は何だろう?」と考えるようになりました。
例えば仕事でうまくいかないことがあった時、以前の私なら「なんでこうなんねん。こっちは一生懸命やっているのに」と思うことが多々ありました。
今は同じような時「このうまくいかなかったことの資産・借方は何だろう?」と考えます。すると、「こちらの準備不足や話の内容」などが浮かび上がってきます。これらに気付いて次回までに改善できるのなら、今回うまくいかなかったことは資産・借方となります。
この考えは逆もあって、うまくいった時に「この出来事の負債・貸方はなんだろう」と考えると、気持ちを引き締める効果があります。
現実が先にある ⇒ 心が先にある
哲学や仏教の本を読むと、こういったことが書いてあります。客観的に存在する世界に色を付けるのは、私たちの持つ心に違いありません。
しかし私たちは現実の世界を認識し、それから様々な思いが湧き上がってきます。凝り固まった頭、偏見、エゴが、あたかも最初からどうしようもない世界が目の前に存在したかのような認識を私に与えます。
私はずっとモヤモヤした心を抱えて生きてきました。いろいろなことに恵まれているにも関わらず、その幸福を実感でいないまま過ごしてきました。
そんな私ですが、私より周りの境遇に恵まれていないように見えながら、私よりずっと幸せそうに生きている人がいることにも気付いていました。
私は今思います。そういう人たちは本当に幸せに生きているのです。そして、私との違いは「現実より先に心がある」ということだと思います。
私は今、少しずつそのことに気が付いてきています。
例えばこういうことです。朝起きた時、こう思うのです
「今朝も妻が私の横にいてくれた。愛想つかして逃げていなくてラッキー」
ベッドから降りてリビングまで歩きながら思います。
「体が動く!脳の血管が切れていない。今日もいい日だ。」
バカみたいなことですが、こういう風に心を先に「ラッキー」とか「いい日」と決めてあげると、その後本当にいい一日がやってくるのです。心に現実がついてくる感じです。
最近、私はどんなことにもこれを応用しようとしています。面倒な仕事がやってきた時も「これで私の経験値UP」と思うと、本当に楽しく仕事ができるので不思議です。
英検にしても、簿記にしても、心の話にしても、私がこうやってブログを書くうちに頭の中に浮かび、そして実行するうちにまた次の考えが浮かび、その連鎖反応の内に起こっていることです。
これからも、このブログは続けて行きます。今は週1更新でも、通訳案内士とイタリア語の試験が終われば、もっと記事を増やせたらと思っています。
苦しんだ語学も、逆にそれをネタに別のブログを作る手もあるなと考えています。そうなれば本当に借方・貸方が合います。