最大の発明

中間テスト

束になったマークカードをカードリーダーにセットし、パソコンの画面の読み取りボタンをクリックします。調子がいい時はものの20秒で1クラス分のマークカードを読み取ることができます。

読み取った後はダブルマークや空欄の確認など細かい作業を手動で行い、それが終わると印刷ボタンを押します。プリンターから次から次へと個人の成績表が印刷されます。

いつもの考査後の作業ですが、私はプリンターの横に立ちながら同じことを考えています。

「どうしてこんなことができるのだろう」

大学生の時、初めてワープロを買いました。確か「オアシス」という名前だったと思います。文章が完成すると紙をセットし印刷ボタンを押します。取り付けられた感熱式のインクリボンが紙の上を左右に動き、一行ずつ私の書いた文章が目の前の白い紙に現れていきます。

私はこの時も「どうしてこんなに速く文字が打てるのだろう」と感心しました。

現在のプリンターの速度はその当時のワープロの比ではありません。ワープロの場合、目の前で仕組みを確認することができました。しかし、このプリンターでは何が起こっているのか想像することもできません。インクリボンがワープロの数十倍の速度で動いているわけではないことは、なんとなくわかります。

しかし、どうしてカードリーダーで読ませた情報と、パソコン上で計算された結果と、それを個人ごとに振り分けて知らせる紙が、このように素早く連携して私の目の前に次から次へと現れるのかは、全くもって不思議な現象であります。

そして現代に生きる私たちはそのような不思議な現象を「当然のもの」として考えて毎日を過ごしています。パソコンや印刷機だけではありません。私たちの身の回りにあるたいていのものはそうです。

テレビやパソコンといった電気製品から、車や列車や飛行機などの輸送機器、プラスチック製品、薬や医療器具、農業器具や化学肥料、私たちの身の回りにあるほとんど全てのものは「材料を用意してあげるから作ってみなさい」と言われても私には作ることができません。

私のすぐ横に私の友達が作ってくれた小さな本棚があります。木材が与えられたら私にもこれと同じものが作れるかも、と思いましたがすぐにそれが間違いであることに気がつきました。

木材が私の前に現れるまでに、チェーンソーを用いて木を切り取り、トラックを使ってそれを製材所に運び、機械を使って木を適切な材料に変える必要があるからです。

斧や鉋を使えば自分でできるかというと、私はその斧や鉋を作るための鉄の作る術を知りません。

考えると気が遠くなりそうです。私たちはパソコンはもとより目の前の本棚でさえ自分だけの力で作ることができなのです。

蓄積できる

人間一人の力では木材を加工することすらできないのですが、現実的に私たちが数限りないほどの便利な加工品に囲まれて暮らしています。これは、一人ではできないことも多くの人間が集まれば可能になるからです。

そして、ここが大切なところですが、多くの人間とは何も同時代に存在する人間でだけである必要はなく、あらゆる場所であらゆる時代に現れた人間でよいのです。

そのような時も場所も超えた人々が協力しあって便利なものを作ることができるのは、私たち人間が他の動物に比べて比較にならないほど発達させた能力を持っているからです。

それは人間の最高の発明品である「言葉」であります。

言葉があるおかげで、私たち人間は自分が見て聞いて感じて試したことを他人に伝えることができます。一人の体験が万人の体験に変わるのです。

人間と同様に道具を使う動物もいます。私の頭にすぐ浮かんだのは、棒を使って蟻塚のアリを捕まえて食べるチンパンジーです。例えば、チンパンジーの一頭が、ちょっとしたことからある形状の棒がより多くのアリを集めることに気がついたとします。

しかし、チンパンジーはその事実を元に棒を分析してより効率の良い棒を作り出すかというと、それはできないでしょう。棒の差異を言語化して他の個体に伝えることができないから、集団としての知恵が使えないのです。

その点、他の動物と比べはるかにきめの細かい言葉を持った人間は、時間と空間を超えて知恵を共有し発展させることができます。

何事にも始まりがあります。私たちがその利便性を享受するコンピューターも、そこへ至る無数に枝分かれした水脈を持ちます。その中の一つは「この木とあの木は水の中で浮き方が違う」程度のものだったのかもしれません。そのことに気が付いた人が、それを他の人たちと言葉を用いて共有します。

それが何世代も経つうちに「密度」や「比重」という概念に変わり、更にそれらの考えが別の起源を持つ考えと出会い「伝導」や「絶縁」などの考えが生まれ、更に時代が下りたくさんの水脈を集め「半導体」なるものが発見されコンピュターへとつながる道ができたことでしょう。

言葉の効用により、個体としての生物の死によりその生物が生存中に獲得した知恵が消えてしまうことがありません。体は滅んでも、考えは生き続けるのです。現に私がこうやって書いていることのほぼ全ては私が初めて考えたことではありません。私は誰かがかんがたことを言葉を使って知り、それを書き直しているにすぎません。

簡単に考える

考えれば考えるほど「言葉」とはすごいものだなと思わずにはいられません。私が今日行ったマークシートの採点作業、数十問の問題が採点され、正確に処理されて、印刷物として目の前に現れる、こんなに手軽でいいのかと思うほどです。それが可能なのは、根本的に考えたら数万年にわたる言葉の蓄積があったからに違いありません。

私たちは私たちの力だけで生きているのではありません。大自然の中にポツンと放り出されて、「全部自分で作ってみなさい」と言われてもロクなものはおろかロクでもないもの一つ作ることもできません。

名前も顔も行きた時代も知らない数えきれない人たちが、言葉をつなぎ続けてくれたおかげであらゆるものが存在します。

存在するのはものだけではありません。

目に見える色や形、鼓膜で感じる音、味蕾で感じる味、鼻口が受け取る香り、肌で感じる温度や圧力、私たちはそのすべてを言葉によって表そうとします。そして、それらの言葉を作ったのは私ではありません。

「全てはメタファーと引用にすぎない」

そういった人がいます。私はその言葉を聞いて救われた思いがしました。全てが言葉によってできているのです。

さて、そのような素晴らしき人類最高の発明品である「言葉」を学ぶためにたいそうな理由が必要なのでしょうか。国語であっても外国語であっても、それを学ぶことは最高の発明品に磨きをかけることに他ならないと思うのです。

私たちが享受している利便性は言葉なしではありえません。もっと言えば私たちが考える「人間性」の要素はすべて言葉によって形作られています。言葉を学ぶことは人間を人間たらしめているものを確認しているのです。

「もっと簡単に考えられないかなあ」と私はいつも思います。私がこんなことを書くのは、言葉、特に外国語の学習や教えることにいろいろな理由が求められるからです。そしてその理由の部分にいろいろな苦労があるのです。

私が今日採点した定期考査もその中の一つです。書き出すと長くなるので今日はこの辺で筆を置きます。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。