クラスLINE
高校時代の同級生とは仲が良く、だいたい年に一度、10数名が集まってお互いの近況を報告し合う。逆に言うと、お互いに顔を見せるのは、特別に仲が良かった友だちを除いて、この時だけである。
高校時代は毎日会い、話の尽きなかった友人たちも、時が経つと年に一度会うのが丁度良いぐらいの関係になる。子どもが小さなうちは、その世話で忙しかった友人たちも、子離れが進むにつれて時間に余裕がでてくる。
そんな訳で、時々クラスLINEを通じで話が盛り上がる。もう充分中年のおじさんやおばさんになったクラスメイトであるが、LINEでやり取りをしていると、17歳の頃とあまり気持ちが変わらない気がするから不思議だ。
先日は”欲しい物”について話が弾んだ。
電気製品や車や趣味の道具など、画面上に”モノ”が行き交う。人によっては高校時代と変わらぬものを欲していて、思わず笑ってしまう。
私も”欲しいモノ”についてメッセージを送ろうとして考えた。そして立ち止まった。しばらく考えた。出てこない。私が”欲しいモノ”が何か分からない。
「欲しいのは語学力とか、全国通訳案内士の資格」ということはできる。または、私にとって一番貴重な「自由な時間」ということもできる。
しかしながら、こういった目に見えないものではなく、物理的なモノで欲しいものが見当たらない。「何か欲しいものある?」と聞かれたとき、すぐに答えが出てこない。
私は何を欲しているのだろう。この問いは「私は何のためにお金を稼いでいるのだろう」ということにも関係してくる。
私にはかつて”欲しいモノ”が沢山あった。そして、それらのモノを買うために、たくさんお金が欲しいと思っていた。今でも、たくさんお金が欲しいという気持ちは変わらない。しかし、自分の欲しいモノが即答できないという事実に気づいた時、私はどうしてたくさんのお金を欲しているのかということに思いが至る。いったい、私は何を求めているのだろうか。
私の欲しかった”モノ”
確かに、私はいろいろなものが欲しいと思っていた。そして、いつも「モノが足りない」という欠乏感に悩まされていた。同時に「モノを買うためにお金を稼ぎたい」という思いも。
私が欲しかったものについて記憶をたどってみる。
書籍
私が初めて自分の蔵書をブックオフに売ったのは、今から5年ほど前だと思う。それ以前は、本は増えていくものであった。学生の頃から「本代をケチってはだめだ」と自分に言い聞かせてきた。週に1度は書店に行き、しばらく本を眺めて、背表紙と目が合って、何か感じるものがあれば購入した。
それほど広くない私の家の壁一面の本棚始めとして、押し入れ、ウォーキングクローゼットが本で埋まり始めた。実家の倉庫にもかなりの量が眠っている。中には未読の本も相当数ある。
持っている本は、私の頭の中のような気がした。そのうち私は、こうやって家を狭くしてまで本を買うことは、自分の自信の無さの裏返しであること気が付いた。
今は書店や図書館が自分の本棚のような気がしている。良い本があれば借りるか買う。読んだら売るか捨てる。手元に置いておきたいという気持ちは、一部の本を除いて消えた。
CD
高校生の時、ハードロック・ヘヴィーメタルを聞き始め、以来これらの音楽を愛している。高校生の時分、1枚2500円のCDを買うことはとても勇気の必要なことだった。
雑誌や友人を通じて情報を集め、吟味を重ねて購入し、CDプレイヤーに入れる。最高の気分になることもあるが、当然「お金損した!」と叫ぶこともあった。
大人になり、ある程度お金が自由になると、私は雑誌や書籍の情報を基に数ページからなるリストを作成した。タイトルは「死ぬまでに購入するCDリスト」。休日はそのリストを手に、中古CD店を巡った。
CDの枚数が1000枚になるころ、私は思った。「何のために私はこうやってCDを集めているのだろう?」
もはや聴くことより、CDを探すことの方が中心になっていた。勇気を出して買った1枚のCDを繰り返し聴いていた高校時代のことを思い出した。
私はリストを捨て、CD屋を巡ることをやめた。集めたCDはどうしても捨てられないものを除きブックオフに売った。
服
服や靴に関して、私はいつも欠乏感を感じていた。「私は持っている服が少ないから上手にコーディネイトできない」そう思っていた。実際は、玄関のかなり大きめの下駄箱の半分は私の靴で埋まっていたし、ウォーキングクローゼットも、寝室のタンスも、和室に置いた棚も服でいっぱいであった。
仕事服はデパートのパターンオーダーが中心であったが、仕立て屋に作ってもらうこともあった。そういった服と、アウトレットやユニクロなどで買った服、もう着ることはないが、思い出が詰まっていて捨てられない服とが無秩序に同居するカオス状態のクローゼット。
心の整理をするためにブログを書き始めると、服を整理する機会もやってきた。こんまりさんの本に出会い、片付けをすると、服の数は3分の1になった。今ではそれでも多いと思っている。そして「着る服が無い」という欠乏感は無くなった。
その他
その他若かりし頃は、車、バイクをはじめとして、PCやオーディオ、TVなど、いい物が欲しいと思っていた。
車に関しては、今、ドアにサビが目立つ車を「日本文化ワビサビ仕様」と呼んで楽しんで運転している。かなりぼろい車であるが、しばらくは変える気はない。
バイクはヤマハに乗っている。それほど高価な車種ではないが、とても満足している。パソコン、テレビ、オーディオ、普通に機能すればそれでいい。壊れたら買い替えるが、それ以外はあらためて欲しいとは思わない。
何を求める?
ふとしたクラスラインがきっかけであったが、私は考えさせられてしまった。いったい私は何が欲しいのであろう。
欲しいモノがないということは、裏返せば私はもう物質的には満ち足りた状態にあるということであろう。かなり贅沢なことである。
満たされたいと思い、働いてお金を稼いできた。欲しいものはたくさんあったはずである。少し過去を振りかえってみる。私が心をときめかせながら買ったものは何だろう。
1つだけ出てきた。今年の1月、ヤスフク明石焼き工房で買った、安福さん手作りの業務用焼き器。これを買ったときは心ときめいた。世界でこの人にしか作れない鍋、私の楽しそうな未来とつながっている。
小さな店で明石焼きを提供し、ビールとともに美味しそうに味わう常連客と会話する私の姿が見える。そんな未来を夢見ながら、焼き器は倉庫に眠らせている。
この焼き器以外、心ときめかした買い物の記憶がでてこない。
あらためて思う。私は何を欲して生きているのだろう。何のためにお金を稼いで生きているのであろう。
家のローン。子どもの学費。確かに大切である。これらの支払いをすることは、今の仕事をしていれば十分可能である。
しかし、これらのためにお金を稼ぐというのは心がときめかない。
学生の頃、勇気を出して買ったCDをプレイヤーに入れる時、社会人になり初めて仕立てたスーツの袖を通す時、30歳を超えてようやく免許を取り、注文したバイクを店に取りにいく時の、あのワクワクを味わうことはもうないのかもしれない。
もう、モノでは満たされなくなってきている。逆に、年をとって身の回りのモノをできるだけ減らしたい気持ちの方が強い。本もCDも服も最低限でいい。車もバイクもその他の機器も同じだ。
こう思えるのはありがたいことである。私の周りに生きていくために必要なものが十分に揃っていることの証左に他ならない。何かが満たされれば、同じ量の何かを失っていく。人生はまさに簿記の借方・貸方だ。
モノに満たされていて、新たに欲しいという気持ちにならない。逆に減らしていく方がスッキリする。そんな私なのに、どうして以前と変わらずにお金が欲しいと思うのだろうか。
漠然とお金が欲しいとは思うけど、「何を買うためにいくら欲しいのか」と聞かれれば答えに窮してしまう。クラスラインで「何か欲しいモノ」が思い浮かばなかったのと同じ状態である。
そろそろ計算を始める時期なのだと思う。真に幸福な人生を生きるために。私の持っている資産をすべて書き出し、これから必要になる経費を足し算する。後者から前者を引いた数字が、私がこれから稼ぐ額になる。今まで一度もやったことのない自分のPL/BSを作ってみるのだ。
案外、これからあまり稼がなくても良いかもしれないし、今の仕事を定年まで続けることになるかもしれない。私の直感は「50才代初めぐらいには転機が来るのでは」と告げている。
ラインには「今は物欲よりも仏欲が強いので寺に行きたい。展開力のない答えでゴメン」と書いた。
確かに、今の私はモノよりも心の安らぎを求めている。通訳案内士の勉強をしたこともあるだろが、この国の神社仏閣に行きたくてたまらない。
お金を欲する気持ちは、旅費が引き金になっているのかもしれない。お金の計算の中に旅費を多めに入れておこう。なんともワクワクする計算になりそうだ。