パチンコ屋の前で…
去年の終わりごろ、街を歩きながら何か違和感を感じた。それが何に対する違和感なのかよくわからないままであったが、しばらくするとその正体はパチンコ屋の前でタバコを吸う人の光景であることに気が付いた。
もうずいぶん長い間パチンコ屋には入っていないが、そこは世間でどんなに嫌煙運動が盛り上がろうとも、全く意に介することなく、最後までそれに背を向け続ける人たちが集まり、その人々をサポートする場であると思っていた。
パチンコ屋の匂いとはタバコの煙の臭いと同義語である。学生の頃、友達に誘われてパチンコ屋で1年ほどバイトをした。時給はそこそこであったが、夕食の賄いが付き、仕事中にタバコが吸えることが魅力であった。当時の私は喫煙者であった。
店内は常にタバコの煙でくすんでいて、夕方4時間のバイトを終えると体も身に付けているものもすべてパチンコ屋の匂いに染まった。客は右手でレバーを握り、左手にタバコを持ち、ガラスに煙を吹きかけながらパチンコを打っていた。私の感覚で7割ぐらいが喫煙者だったと思う。自分自身も、客対応の合間にホールの端でタバコを吸うことが認められていた。
そのパチンコ屋の前で、客が数人集まってタバコを吸っている。「どうしてわざわざ外で」と思い入り口を見ると、ドアには「店内禁煙」のステッカーが。
「パチンコ屋の店内でタバコが吸えないなんて!」
世の中が変わろうと絶対に無くならないと思っていたパチンコ店内の喫煙。私がその遊戯から離れていた間に(元々ほとんど行わなかったが)それが現実になっていたことにかなり衝撃を感じた。これは約半年前の出来事。
そして先日、私が違和感を感じた店頭を通ると、そこからは灰皿も喫煙者も消えていた。ついにパチンカーがタバコを吸う場所がなくなったのだ。
狭まる包囲網
仕事を始めたころ、上司から彼が若き頃の会議の様子を聞いた。タバコを吸わない人の存在に関係なく、喫煙者は会議中に喫煙。灰皿の用意と後片付けは若者の仕事であったそうだ。
私が仕事を始めたころは、屋外に置かれた灰皿か建物内の喫煙室がタバコを吸う場所であった。今では、それらの場所はおろか、その周辺を含み喫煙することができない。
街の中から急速に灰皿が消えている。公共施設やビルの入り口、駅のホームやバス停、当然のようにそれらの場所には灰皿が置かれていたが今ではほとんど見ることが無い。
ここは無くならないであろうと思われたコンビニの前も、灰皿が置いてある店舗の方が圧倒的に少なくなった。行きつけのコンビニの店員によると、2020年内にはすべての店舗で撤去するように本部から指示が出ているそうだ。
学生の頃、電車の中でタバコを吸った記憶がある。新幹線や特急列車での話ではない。多くの人が日常的に利用する普通列車の車内に灰皿が設置されていたのだ。今では車内でタバコに火をつけた瞬間に通報されるだろう。
行きつけの銭湯に入れば、休憩所の真ん中に大きな灰皿が置かれその横に1辺が10㎝はある巨大な立方体をしたマッチ箱が並んでいた。いったい何百本のマッチが入っているのだろう。そのマッチで点けるタバコは美味しく感じられた。これも昔話。今はタバコ吸いは喫煙室という名の窮屈な独房へ追いやられている。それでも吸う場所があるだけましである。
今の私はタバコを吸わないが、昨今の喫煙者をめぐる状況を見ていると異常な雰囲気を感じる。喫煙者が可哀そうになり、同情を禁じ得ない。
コロナ禍と自粛ポリス
喫煙者の心情を想像してみる。タバコを吸っていて褒められることはまずない。「多額の税金を納めていただきありがとうございます」とか「慌ただしい世の中でゆっくりとした時間を過ごすことも大切ですね」といった言葉を受けることはない。
逆に「納めた税金以上に喫煙者には医療費がかかる」など、金には金で切り返されるのがオチだ。それに、時間をゆっくり過ごすどころか、昨今の喫煙者は何かに追われるようにタバコを吸っている。建物の陰で、公園の隅で、周りを気にしながら携帯灰皿を手に、5秒に一吸いぐらいの慌ただしいペースで。
街からは吸う場所がどんどんと消えていく。数少ない灰皿設置のコンビニに人が群がる。タバコだけ吸いに来る客に店が困り、灰皿を撤去する。路頭に迷いながら喫煙場所を探すスモーカー。その心理は、ほとんど犯罪者のようであろう。
何も悪いことをしているわけでは無いが、世間から罪人のような目で見られる存在、それが喫煙者。「タバコの煙は喫煙者と周囲の人両方にとって有害である。だからタバコは絶対悪であり、喫煙者の言い分を擁護する余地はない」そういったパラダイムで喫煙習慣が語られる現状をみると少し恐怖を感じてしまう。
今年に入ってからのコロナ騒動で、世間には「自粛ポリス」という人たちが現れた。コロナ禍で営業を続ける店に対するいやがらせや破壊行為など、通常の社会状態なら許されない行為が、特別な状況下なら容認されると勘違いして行動する”正義感”に溢れた人々だ。
「コロナに感染してもいいのか?」という錦の御旗のもと、その問いに反論できない人々に”正義の鉄槌”を下していく。
もう少し心が落ち着いていれば、また、もう少し時間と空間軸を活用して世の中を広く見る視点があれば、そのような行為は行われなかったであろう。裏を返せば、余裕がない、自分の現状に満足できない、不満をどこかへぶつけたいということであろう。
この自粛ポリス、喫煙者に対する非難と似ている。反論できない枠組みの中で弱者をたたいていく構造。冷静さや大きな視点を欠いた人たちが、くすぶった不満をぶつけられる場。
「人間はもっと複雑で多様な生き物で、体に良い悪いだけではないのになあ」そんな思いになる。
それぞれの人間がそれぞれの思いを持ちながら生きている。一人の個人の中でも思いは一様ではない。自分がたまらなくかわいいと思える瞬間もあれば、自らを傷つけたい衝動にかられる時もある。私たちは言語を操り、その心と体は意味によって編み込まれている。色が複雑に混ざり合った油絵のような心が、時間の経過とともに一瞬たりとも止まることなくその色彩を変化させていく。そんな人間が大勢集まってこの世の中が成り立っている。奇麗さと汚さ、正しさと邪悪さの境界も明確になったり時には消失したり、多くの場合は同時に存在する複数の境界線で人間を悩ましている。
タバコを吸わない私が心配することではないかもしれないが、街から消えていく灰皿に見られる現代人のあまりに単純で割り切りのよい人間観に、私の心が疲弊していくのを感じる。
体に悪いタバコをゆっくりと吸う人も受け入れてあげる社会、それぐらいの余裕があっても良いのではないか。世の中にとって、個人にとって良い悪いだけで物事の可否を判断していては、私たちはいずれ自らを否定するパラドクスに落ち込んでしまう。人間は老い、そして死んでいく。年をとり生産性が無く医療費を食いつぶすだけの私たちは、必然的に悪者にならざる得ない。
たかが灰皿のことであるが、長生きするだけで自分が悪者になっていくような社会の到来に、私は不安を覚える。