面倒になってきた
今まで年上の人にさんざん言われてきた言葉。
「年をとればとるほど1年が速くなるぞ」
この言葉に対して余裕を見せながら付き合ってきた私だが、最近はその余裕もなくなり、この時間の加速に抗いながらも結局は飲み込まれているような気分である。
初めての場所を訪問するとき、そこから駅へと向かう道は、最初駅からその場所への道のりと比べて、距離的にも時間的にもはるかに短いような気がする。ニュートン力学で考えれば、それは単なる錯覚であって、距離は変わりようながいし、同じペースで歩けば時間も同じである。
しかし、帰り道は確実に距離も時間も短い。世界を見て認識しているのは私である。私にとって私の感じ方は、そのまま私の現実となる。そんなわけで、人生の後半は矢のごとく過ぎ去っていく。2022年の1月も信じられないような速さのうちに終わってしまった。
この1ヶ月を振り返ってみる。車を運転したのは1度であることに気が付いた。妻と二人で、駅から離れたホームセンターに買い物に行った。その往復10キロほどが1月唯一の運転となった。ガソリンを1リットル消費するかどうかの距離である。
子どもたちが成長し、家族そろっての外出がなくなったここ数年は、このような感じである。車のハンドルを握るのは一月に1回か2回。以前は免許を返納した妻の両親のもとに、片道2時間半かけていろいろなものを届けに行っていたが、コロナでそれも宅配に変わってしまった。
妻とたまに外出するときがある。ほとんどは電車で出かけることになる。食事をするにしても、美味しいお酒と一緒に食べないと楽しくないからだ。
一人で出かける時も当然電車である。サウナに入れば、当然その後にビールが待っている。友だちに会うときも、ふつうはお酒を一緒に飲む。シラフのランチとケーキで何時間も話せる女子の友達付き合いは、私には不可能である。
車を運転するのは好きであるが、その機会がなくなってきた。それに、最近は市街地を運転することが面倒に感じられる。信号のない田舎道ならいい。しかし、常に緊張を強いられる街での運転は車から降りた後にどっと疲れが出る。こんなところでも加齢による体の変化を感じる。
車との付き合い方が変わってきているように感じられる。
田舎で育った私にとって、車はあって当たり前のものであり、自分専用の車を持たない人はまずいなかったし、いたとしたら引きこもり同然であった。お金をかける場所も、お洒落をする場所も車から始まる、そのような感覚の中20代まで過ごしてきた。
ときめかない
親元を離れ、仕事を始めてからは電車が中心の生活に変わった。それでも車は人並みに好きで、ドライブによくいった。車を所有する状態は当たり前であったし、駐車場や保険にかかる費用は普通の生活をするために必要なコストであると思っていた。
そのようなわけで何も考えずに車を持ちつづけてきたわけであるが、これほど乗らないと最近はそのことに対して疑問を感じるようになった。
私はいったいいくらのお金を乗らない車にかけているのだろうか。駐車場代、保険、車検費用、ガソリン代、オイル交換費用、さっと考えるだけで月に2万円は使ってそうだ。私のもらっている小遣いを考えると「それだけか」といえる額ではない。
月に1~2回近場で利用するぐらいならタクシーを使っても1万円以内ですみそうであるし、カーシェアリングを使えばもっと安く済ますことができる。
「車を所有することはお金の問題ではなく、自由や生き方に関わってくるのだ」そういう声が聞こえてきそうである。確かにそうだ。かつての私もそう思っていた。車を所有することで得られる自由の感覚、どこへでも移動することができるという開かれた心情の心地よさは理解できる。
しかし、今は車を運転することに、かつてのような期待感を持つことができない。もちろん、どこか遠くへ行きたいとは強く思うのであるが、電車とタクシーを乗り継いで、その場所で美味しいお酒を飲むということへの切望感の方が高いのだ。
運転すること自体が楽しそうな車もある。若いころはミッションのスポーツ系の車を運転したいといつも思っていた。オートマチック車もあったが、ミッションが一般的であり、どのメーカーもスポーティーな味付けをした車種を販売していた。私はそういった国産車に乗りながらも、いつかはBMWの3シリーズのクーペに乗りたいと思っていた。
私の若い時代から考えて昔の車も、運転していて楽しかった。平成初期に運転する昭和50年代の車である。ハンドルやクラッチが重く、今の車と比べると格段に運転しにくいのであるが、それがまた楽しいところで、「私が制御している」という気持ちになった。
いろいろと昔のことを思い出すが、今はどうだろう。どのような車があるのだろうと、たまに書店で車の雑誌を立ち読みしたり、新聞広告を眺めたりする。ずいぶんとマイルドな車種が多いという気がする。それに電気自動車やハイブリットの割合が多く、ガソリン車はもう無くなってしまうんじゃないかと思うほどである。
トルクがどうのパワーウェイトレシオがどうのと言っていた昔のことを考えると、時代は確実に変わっているし、当然人々が魅力であると思う箇所も違う。車は地球にやさしく穏やかに移動するための道具であり、走りそのものよりその周辺にあるライフが焦点となっている。私が車に対してときめかなくなっている理由は、お酒を別にするとこの辺りにありそうだ。
内燃機関
この記事を書き始めたとき、私は自分が今欲しいと思っている車について書くつもりでいた。しかし、この流れではそこへと到達することができそうにない。これが文章を書くことの妙味であると同時に不安定さでもある。文字を綴ることで、私の考えが紡ぎ出されていく。欲しい車について書くつもりが、世の中の移り変わりとそれについていけない私の姿になっている。
今私は普通のミニバンを所有している。もう15年近くも乗っているが走行距離は約7万キロに過ぎない。年間5000キロ以下、月になおすと300キロ台である。これは家族で頻繁に旅行をし、月に1度片道2時間半をかけて妻の両親のもとへ通っていた時を含む数字である。今は月に50キロ乗っているかどうかである。
洗車は機械に任せっぱなしのためか、車体の両側にサビが目立ってきた。それでも私はリペアしようとも思わず「日本文化ワビサビ仕様」と呼んで楽しんでいる。日本にいたら目立つ錆であるが、かつて訪問したナポリでは普通に走っている車、そのような言い訳をしながら乗り続けている。
そんなワビサビ車であるが、最近外見以外も経年劣化が感じられるようになってきた。できることならあと3~4年、せめて10万キロまで乗りたいと思っているのであるが、このペースだと10万キロに達するのに5~6年かかりそうである。それまでワビサビ車はもつのであろうか。
いずれにせよ、車に頼る生活を完全に手放さない限り、もったいないと思いながらも新たな車を購入することになるだろう。私の関心は、その時、内燃機関によるエンジンで動く車が売られているのかどうかということである。
私は、鉄道に関して言えば電車であってもディーゼル車であっても、同じように鉄道として楽しむことができる。しかし、電気自動車に関してはもはや車と同じ乗り物には思えない。まあ、これはあくまで運転をする楽しさに関してであるが、そう感じてしまう。どうしてなのだろう。
考えてみると、私は電気自動車のあの無音の時の冷たさが嫌なのかもしれないと思った。
鉄道は、電車であればモーター音とコンプレッサー音、ディーゼルであればエンジン音が聞こえると同時に感じられる。内燃機関の車も当然エンジンの鼓動を感じることができる。私は、そこに生命的なものを感じているのだと思う。私が、車や電車に乗っていて(当然バイクも)楽しいと思えるのは、それらを生き物としてとらえ、感情移入するからであるからだと思う。
電気自動車は、無音となる停車中生命体から無機質なものへと変化する。私はそのことに違和感を感じるのだろう。そういえば、アイドリングストップ機能の付いたエンジン車も、私は乗っていて不安になる。
いろいろと書くうちに私のことが分かってきた。私はアニミズムの傾向が強いということ。今日は車について考えてみたが、そういえばこの傾向は他のものにも強く出ていると思う。そのことは、心の豊かさであると同時に、私を苦しめてきた資質でもあると、今は少し距離をおいて考えることができる。
車に生命の息吹を求めるのなら、内燃機関が無くなる前に、ちょっと強力なエンジンが付いた、例えばターボ車でスポーティーな味付けの車に買い替えるのもアリかなと思った。ここから先は妻との交渉である。