片づけをすると心が楽になりそうな気がする

妻の買ってきた本

去年の秋ごろ、妻がよく「ブックオフに行きたい」と言っていた。

「なんで?」と聞くと、「片付けの本が欲しい」とのこと。なんでも近藤麻理恵という片付け界のカリスマがいて、彼女のやり方で片付けると人生まで変わるらしい。妻は、TV番組でそのことを知り、彼女の本を探していたのだ。

一瞬「ホンマかいなー。片付けで俺のモヤモヤも無くなるんか?」と思うと同時に「なんで書店かアマゾンで買わへんの」と言おうとしたが、彼女には彼女の流儀がある。彼女の中では、本は中古で買うべきものなのだろう。

普段、ほとんど読書をしない私の妻だが、時々こちらが「オッ」と思うよなう本を、いいタイミングで読んでいることがある。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」や、カミュの「異邦人」などは、妻が読んでいるのを見て私が手に取り、そこに書かれていたことが当時の私の心に必要な栄養素となった。

そんな妻が、今度は片付けの本を読もうとしているのも、何かしら私に影響を与えることかもしれない。

しばらくして、リビングの本棚に、近藤麻理恵著「人生がときめく片づけの魔法」が並んだ。妻はいくつかリサイクルショップを周り、定価1400円の本を500円で購入していた。

「その本を探すために費やした時間とガソリン代を考えると割に合わない。すぐに新品を買った方がよい。」これは私の考え。妻は、安い食材や日用品があると、平気で時間とガソリン代を使って遠くまで買い物に行く。この辺りの感覚、私と妻はずっと交わらないままだ。私は何も言わない。

そのように、時間とエネルギーと引き換えに安く手に入れた本も、他の本に埋もれたまま冬が来て、新年を迎えた。妻も私も、まだその本の表紙もめくっていなかった。

「家を片付けて、ときめく人生を送りたいんだろ!」なかなか年末の大掃除を始めようとしない妻への言葉が喉元まで出かかったが、グッと飲み込んだ。子育てや家事など二人で協力して行う領域はいくつかあるが、家の整理に関しては妻が主導権を持ちたい領域。そこの見極めをしっかりと行わないと、私の立ち飲み・バイク・サウナ・鉄道などに影響を及ぼす。

近藤麻理恵=konmari

買った本のことなど忘れたまま年を越し、普通に仕事が始まる。1月中旬のある日、オーストラリア出身の同僚童君(彼のニックネーム)と英語でしゃべっていると、彼の方から近藤麻理恵の名前が出てきた。

私は、普段ほとんどテレビを見ない。定期的に見るのは、ニュース、大相撲、タモリ倶楽部ぐらい。最近では再放送の「おしん」。偏っている。だから、知っているのが当たり前と思われる有名人や芸能人が分からない。とにかく顔と名前が一致しない。職場の若者との会話は芸能分野では全く成立しない。最近、子供たちの無知な父親を見る視線が辛い。妻は、もうあきらめの境地に達しているが。

私の心が柔軟で、普通の人が見ているものを見て楽しみ、普通の人が知っている有名人の話題で話ができれば、私のモヤモヤも軽減されているといつも思う。でも、TVを見るのとてもつらい。ラジオの方がまだまし。どうしてだろう。

話を童君との会話に戻します。

どうやら近藤麻理恵さんは、普通にTVを見る人なら知っていて当然の有名人のようだ。芸能人ではないが、主婦に影響力を持つ、片付け界のインフルエンサーらしい。

実際に、オーストラリア人である童君までも知っていた。彼によると、彼女は日本だけじゃなく世界中に影響力を持つ人で、片付けの著書も多くの言語に翻訳されているそうだ。

彼女はkonmariと呼ばれていて、その名前は=”片づける”という意味の英語の動詞としても使われるという。ずっと英語を勉強しているのに知らなかった。

ちなみに日本では「近藤さん」はかなりの確率であだ名が「コンちゃん」になる、そんな話を童君にしながら、今日帰ったらkonmariと本で対面しようと心に誓った。

読みながらいい予感がしてきた

「家の中を劇的に片付けると、その人の考え方や生き方、そして人生までが劇的に変わってしまう」

「人生で何が必要で何がいらないか、何をやるべきで何をやめるべきかが、はっきりとわかるようになるのです」

片づけのテクニックに力点を置いた本かと思っていたら、「はじめに」から人生について飛ばしてくる。

「ホンマかー」と思いながらも、今までの人生を変えること、というか、今までの人生でいいからそれを前向きに受け入れたい私は、思わず前のめりになってしまう。

本を読み進めていく。どんどん読んでいく。

まだ若いのに、1つの分野を極めた彼女の熱がジリジリと伝わってくる。片付けの苦手な私には腑に落ちない部分もあるが、本全体を通じて他人・自分を問わず、幸福な気持ちで生きてほしい、生きたいという気持ちが伝わってくる。すごく好感が持てる。

効率よく物を収納する方法など書かれていない。ミニマリストのように極限まで物をそぎ落とす技術が書かれているわけではない。

この本で一番大切なことは、生き方を考えること、そのために必要なものを考えること、そして、自分に所属するものの声をいかにして聴くのかということ。

読んでいて、猛烈に片付けがしたくなってきた。今まで数限りなく、片づけをしてはすぐに元通り、を繰り返してきたが、今度はうまくいきそうな気がする。

終わりの方に書かれていた一言が、鋭く心に突き刺さり、同時に私に救いの手を差し伸べてくてれいるような気がした。

しかし結局、捨てられない原因を突き詰めていくと、じつは二つしかありません。それは「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。

人生がときめく片づけの魔法 (近藤麻理恵)P238

「捨てられない」の部分を「モヤモヤの」に置き換えたら、見事に私のことを言っているようだ。過去への執着と未来への不安、まずは物から乗り越えてやる、そんな気持ちで次の休日を待った。

まずは衣類から

konmari流では、片付けは「モノ別」に。そして、最初に行うのは衣類。

2月のある休日、私はすべての衣類を和室の畳の上に並べた。寝室のウォークインクローゼットから、洗面所の棚から、リビング横の衣装ケースから、自分が着ている下着とジャージ以外の衣類を一カ所に集める。

狭い和室は、まるで冬の雪国のようになった。厚さ20センチほどの雪ならぬ衣類が、畳の表面を覆う。平凡な一人の男が、週に5日仕事に行き、2日間休日を過ごす。仕事用のスーツ3~4着×2シーズン、シャツ5~6枚、防寒具、休日用の数着、バイク用の上下、何枚かの下着、パジャマ。理屈で言えばこの程度で一通りの日常生活を送ることができる。

しかし、目の前にあるこの光景は何なんだ。生まれて初めて見る、自分に所属する衣類の全て。同じ色目のカーディガンやセーター。絶対に着ることのない柄のTシャツ。ウェストが入らないズボン。意識的に視界の外に追いやられたまま、何年間も過ごしてきた衣類が、蛍光灯の光の下にさらされる。

konnmari流に従って、作業を続ける。一枚一枚直接手で服を持ち、服の声を聞く。その時自分の心が「ときめく」かどうかが判断基準。とは言っても、すべてときめかなかったら、私は裸で過ごさなくてはならない。

そのあたりの塩梅を加味しながら服を分けていく。1時間もしないうちに大きなゴミ袋4枚分の衣類とお別れすることになった。私は、それらに「ありがとうございました」と声に出して言う。中には一度も袖を通さなかった服もある。服を無駄にしてしまったことを反省、でも前を向く。

残った服の居場所を全て決めてあげる。かなり量が減ったので、すんなりと位置が決まった。

1週間経って…

仕事から帰るとスーツやコート・インナーを、とりあえず空いているスペースにつるしていた私。スペースがない場合は、ハンガーに掛かっていた衣類を別の場所(椅子の背もたれなど)に移し、無理やりスペースを作っていた。

konmari式片付けの後、一番大きく変わったのは、仕事から帰った後、このスペースを確保する作業をしなくてよくなったこと。服を決めた住所に戻すだけ。洗濯した服も同じ。

場所が決まっていることが、こんなに楽なのかと実感している。要は、今までは、生活スタイルに対して服が多すぎたのだ。

そして、場所決めをして分かったもう一つのメリット。それは、その場所にある服がダメになった時のみ、新しい服を買えばよい、と気づけたこと。

今までは、いつも「服が無い」という欠乏感に悩まされていた。本当はありすぎるのに、全体が見えないから、一度コーディネイトがうまくいかなかっただけで「服が足りない」という気持ちになり、闇雲に服を買ってしまっていた。

服の住所が決まれば、そこが空き家になったら補充するだけ。そんな考え方ができる。仏教で言う「足るを知る」という状態。今までの私は、水を飲み続けても喉の渇きが癒されない「渇望」状態だった。これでは、悟りはひらけない。

konmari流のおかげで、少しモヤモヤする要素が減ったと思う。衣類の次は、靴、本、書類と進めていこうかと思う。

「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。片付けができなかったということは、これらと対面することを恐れていたこと。第1歩を踏み出してみると、これらと勝負することも、まんざら悪くもない。今はそんな気持ちがしている。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。