牛肉弁当を求めて

朝の姫路駅

次男と二人で朝の姫路駅コンコースにいる。青春18きっぷが2回分あまっているため、休日の今日二人で使うことにした。かといって昨今の状況の中県外へ出ることはためらわれる。となると、兵庫県南部に住む私たちにとって行先は県北部の但馬地方ということになる。

姫路駅で朝食をとることにした。当然、「えきそば」が食べたい。濃い目の和風だしの中に中華麺が入り、上に小エビの入った天ぷらが載っているそばは姫路駅独特の食べ物で、この駅を利用する時はかなりの確率で食べる。今時珍しいホーム上にあるカウンターで、行き交う列車を見ながらそばを食べることは、私にとって至福の時間である。

「昼も牛肉を食べる予定なのに、牛丼でええんか?」

吉野家の牛丼を食べたいという次男に向かって不機嫌にたずねる。結局大人である私が折れて、駅構内の吉牛で朝食をとることにした。牛鮭定食はそれなりに美味しい。「姫路駅に来たからにはえきそばを食べなくてはならない」頭の固い私の思い込みを取り払ういい機会になったと思うことにする。

今日の目的の一つは「特急はまかぜ」に乗ること。18切符なのにもったいないが、この特急に憧れる次男のリクエストで姫路ー和田山間だけ乗ることにした。その「はまかぜ1号」の発車時刻まであと2時間ある。

私たちは姫路の新幹線口から南東へと歩いて行った。目的はこの辺りにある公園をいくつか回ること。「SASUKE」に憧れ、いつの日かそれに出場することを夢見て筋トレを続ける次男は、公園の遊具をSASUKEのコースに見立ててトレーニングすることを思いついた。そのうち、公園そのものにも興味を持ち、筋トレと公園観察を兼ねて県内の公園巡りをしているのだ。

そんな彼の趣味に付き合い約1時間で3つの公園を巡る。とはいっても私は彼がトレーニングをする間、日陰で新聞に目を通す。これはこれで楽しい。鉄道の旅に不慣れなため今回は私の同行を願った次男であるが、おそらく次回は無い予感がする。一人か友人と出かけていくであろう。新聞を読む合間、次男の成長の様子を観察する。

東姫路駅まで歩き、姫路まで一駅乗ることにする。この駅を利用するのは初めてのことだ。私の記憶には無いが、かつては姫路操車場が広がっていたというこの両駅の間は、今再開発の真っ最中である。すでに多くのマンションや商業施設が立っているが、最後の空間を埋めるような形で巨大なコンベンションホールと病院が建設中である。

それにしてもこのスペースに線路が敷き詰められて、それが貨車で埋まっていたとは。夢がかなうのなら、操車場だった時代のこの場所へ来て、一日中貨車の入れ替え作業を眺めていたい。

「はまかぜ」で和田山へ

姫路駅で和田山までの乗車券と自由席特急券を購入する。次男がまだ小学校低学年の頃「特急はまかぜ」に乗せて城崎温泉に行ったことがある。それ以来彼はこの列車のファンで、今回も18切符があるにも関わらず乗ることにした。確かに電車ばかり走る地域にあって、力強いディーゼルエンジンの音を響かせるこの列車は魅力的である。ディーゼル音に関して言えば、私としては先代の181系の方が好きであったが…、今日も軽油の燃焼する香りと共に懐かしい国鉄型車両を思い出す。

はまかぜ 姫路駅7番線
はまかぜ入線

智頭急行の開通以前、京阪神と山陰東部は3種類のディーゼル特急によって結ばれていた。京都から山陰本線経由の「あさしお」、大阪から福知山線経由の「まつかぜ」と播但線経由の「はまかぜ」。いずれも私の子供時代はキハ181系で運行されており、長編成で力強く走るそれらの特急は憧れの存在であった。

かつては播但線内をノンストップで通過した「はまかぜ」であるが、今では福崎・寺前・生野、そして竹田にまで丁寧に停車する。

姫路へと流れる市川に沿って播但線は標高を上げ、生野で分水嶺を超える。列車から見ている感じだと、生野駅のすぐ北側にサミットがあり、その先の生野トンネルは下り勾配になっている。トンネルを抜けると、今度は日本海へ流れ込む円山川の支流となる。

通常なら県境となってもおかしくない場所であるが、本州で唯一二つの海に接する我が兵庫県はそれが無い。江戸時代なら播磨から但馬への入国である。

建設当時は大変な工事であったと思われる、大規模な築堤の上を播但線は和田山へと向かって下っていく。今では山側のはるかに高い位置を通過する高速道路の高架橋が目に入る。旧国道の横を鉄道が走り、はるかに高い位置を高規格の道路が通り抜ける、日本の各地で見られるようになった光景である。鉄道の基本的なインフラは建設当時から変わらない。

私たちが姫路でぶらぶらと過ごしているうちに、妻はもう一冊の18切符を利用して和田山に先回りしていた。その妻からラインが入った。

妻:「駅弁売ってないで」

私:「駅に無かったら、駅を出て右側の店に行ってみて」

妻:「開いてないで、パン屋ならやっている」

私:「ガビーン!」

今日県北へ向かった目的の一つが、和田山駅の牛肉弁当であった。私は10数年前にこの駅弁を知り、それからこの駅を通るたびにこの駅弁を購入していた。

和田山駅へ到着し妻と再会。すぐに改札へと向かう。若い駅員へ尋ねる。

「駅弁屋さんは営業してますか?」

「ここでは売ってませんが、やってると思いますよ」

橋上駅の階段を下りて右へと向かう。福廼屋の建物が見える。

福廼屋店舗
福廼屋の店舗

店の前に立つ。人の気配はない。左側のシャッターも閉まっている。5年ほど前の前回もこんな感じであった。しかし右側のドアは開き、中からおばあちゃんが出て来て牛肉弁当を売ってくれた。

その時の記憶に励まされながら、ガラスドアに手をかけて引っ張ってみる。

「ガチャガチャ」

「ああー鍵が閉まっている!」列車の発車時刻まで3分を切った。私たちは泣く泣く牛肉弁当を諦めてホームへと向かった。

忘れなれない味

ウィキペディアで和田山駅の乗降客数を見てみると1000人に満たない。時刻表で山陰本線のページを開くと、こんな小さな駅にも駅弁のマークがついている。同じページの亀岡や福知山からこのマークが消えて久しい。

私はダイヤ改正で時刻表を買う度に和田山駅のこのマークをチェックする。そして駅弁が続いていることを確かめて安心してきた。

しかし、一抹の不安はあった。かつてはこの駅の両方のホームに立ち食いそば兼駅弁売り場があった。10年ほど前には山陰線ホームのそれがなくなった。数年前には播但線ホームの売り場がなくなっていた。

駅弁業者の駅弁が駅のホームで買えなくなった。駅に付随する喫茶店で販売しているという情報があったが、今回はその店もなくなっていた。

「もうあの牛肉弁当を食べることはできないのだろうか」

大抵の牛肉は普通に美味しいが、この牛肉弁当を食べた後では「肉のような紙を食べていたのか」と思うぐらい、この牛肉にはうま味が詰まっている。白飯と混ざった上質な牛肉の油の香りが、この文章を書きながらも脳裏に浮かび、唾液が湧いてくる。

おそらく鉄道の乗客に売れる数は限られていて、デパートの催しなどで利益を出していたことであろう。現在のコロナ禍の中でのデパートの状況を考えると、経営的に苦しいのは無理もないと思う。

小さな町の、しかも斜陽産業となった鉄道の駅前で細々と経営を続けて行っている駅弁屋である。21世紀も5分の1が経過した今、存在していることが奇跡的なお店である。

飲食業も大規模なチェーン店がはびこり、資本主義が極まりつつあるこの状態に大多数が慣れてしまった今、このような小さな弁当屋さんにノスタルジアを求める私は風変りとみられる人種かもしれない。現に私も今朝は吉野家の朝食にそれなりに満足してしまった。

しかし、非効率でコストは高くつくかもしれないが「多様性」がある状態の方が世の中は面白い。私は、少なくとも理念の上ではこのような思考形態から抜け出すことができない。そして、その状態を実現しているのは鉄道を中心とした街づくり、すなわち30~40年前の日本の状態である。

そんな時代に生まれ落ちていたのなら、私はこのようなモヤモヤを抱えながら、こんな駄文を書かなくても幸せだったのかもしれない。

話を牛肉弁当へ戻す。とにかくこの日、一番楽しみにしていたこの弁当にありつくことができなかった。意気消沈して駅へ向かう。しかし、その直前、希望を見出した。私が開けようとしたガラス製の扉のふもとにある2つの弁当箱の存在に気が付いたのだ。おそらくこれは、福廼屋の仕出し弁当を食べた人が返却した容器だと推測した。

ということは、「ここはまだ営業している」ということ。私たちは昼食を求めて豊岡方面の普通列車に乗った。しかし、私の頭の中は「どのタイミングで、どうやってこの和田山駅の牛肉弁当を手に入れようか」ということで一杯であった。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。