受講しながら
食品衛生管理者講習を受けながら頭に浮かんだことがあります。
公衆衛生学、食品衛生学、食品衛生法と講義を受けましたが、これらの重要な点を一言で言うと「食品またはその周りにおいて微生物を増やさないようにする」ということです。
もちろん、食品を食べる人にとって毒や化学物質といった微生物以外の危険な要素もありますが、適切に材料を仕入れ、それらを調理し、料理として客に提供する間に最も考えるべきことは、いかに細菌やウィルスといった微生物を増やさないようにするかということです。
そのために大切になってくるのは食材に触れる部分、つまり手や調理器具に微生物をつけないことと、微生物が増殖しやすい温度帯をできるだけ作らないことです。
この日私が学んだ中で一番大切だと感じたことを短く言うと、手をきれいに洗い、調理器具を清潔に保ち、食材や出来上がった料理が10度Cから60度Cになる時間をできるだけ短くするとことです。
「ああなるほど」と思いながら私の頭は別のことも考えていました。それは食品衛生というものは自然界では成立しにくい特別な環境を作り出すためにあるのだということです。
石鹸と水で洗い流すことで手のひらの微生物が少なくなります。アルコールなどの薬品で消毒することで、調理器具の微生物が死滅します。機械を使い加熱や冷却などを行うことで、微生物の増殖を抑えます。
これらのことを行わなかったらどうなるのでしょうか。細菌は分裂を続け、細胞に取り入ったウィルスは増殖を続けます。構造が単純なこれらの微生物は一世代の時間も短いため、次から次へと時には突然変異を行いながら増殖を続けていきます。
「世界にある生物と分類されるものの中でこれら微生物の総量はどれくらいなんだろう」そんな考えが浮かんできます。とにかくどこにでもいて当たり前ですがそれをみることができないのが微生物なのです。
私の姿
私たちは薬品や機械で微生物を管理します。しかし、それらがない状態では細菌やウィルスはどこにでも存在するものです。人間を含む動物や植物の表面や内部、土や水の中、永久凍土の中まで、およそ地球の表面で微生物がいない場所を探すのは難しいでしょう。
私たちは目に見える世界のことは気にします。例えば、小さな虫をカエルが食べて、そのカエルをヘビが食べ、その蛇を猛禽類が食べてという食物連鎖はわかりやすい例だと思います。
自然界の条件により食物連鎖の一部が変わると、それに対応してその上位や下位の生物層が変わります。特定の魚が豊漁になったり、虫が大発生したりする話はよく聞きます。植物相と動物相は密接に関係し合いながら複雑に影響しあっています。
それらは目に見える世界の話ですが、微生物の世界は普通の状態では認識できません。しかし、そこには確実にものすごい大きな世界が存在しています。
このパソコンでキーボードを打つ私の指の先も、たくさんの微生物に覆われています。体の表面だけではありません。体の中にも、特に腸の中には膨大な量の微生物がいて、それが私たちの体の状態を左右しているといいます。
こうなってくると微生物も私の一部のようなものであり、どこまでが「私」であるのかわからなくなります。私は私単体で動いているように頭では認識しますが、微生物が可視化できるメガネがあるとして、それを通じて見てみると微生物という名の粉砂糖にまみれたドーナツのような姿をしているのかと思うでしょう。
私たちが何を考えてどう振る舞おうと、私たちの体は微生物にまみれていて、それらは淡々と増殖と死を繰り返しています。目には見えないけれどもそんなものが存在しているとは不思議でたまりません。そして、世界の秩序は一体どうなっているのだろう。そんなことを考えるのです。
講習を受けながら、取り留めもなく変なことを考えました。どこにでもいるのが自然な状態である微生物ですが、明石焼きを提供するときはそれをコントロールして、不自然な状態を作って提供します。
ここまで書いた後宇宙のことを考えました。無機質が支配している宇宙です。その膨大な宇宙の中のほんの一部に有機物が溢れる世界があります。私たちが暮らす地球です。
そう考えると微生物を排除することは”不自然なこと”ではなく、生物などいない状態が宇宙のスケールから見たら自然であります。
改めてこうやって命を持つのもに囲まれていること、私自身も命を持っていること、今生きていることの不思議さを感じずにはいられません。