祖父を思い出す

戦後75年

高校生の頃、仲の良かった友達が「タイマーズ」というバンドのCDを貸してくれた。この「タイマーズ」とは1980年代の後半にデビューした謎の覆面バンドで、政治色の濃い歌詞をロックやリズム&ブルースに載せて歌っていた。

メンバーのプロフィールは公開されていなかったが、誰が見てもその中心人物であるボーカル「ゼリー」は忌野清志郎であった。そんなタイマーズの曲の1つを、私は夏が来るたびに思い出す。

曲名は「LONG TIME AGO」。広島に投下された原爆について歌われた曲だ。

“Long Time Ago, 44年前~、何の罪もない人が、死んでいったのさ”

「44年前」

広島に原爆が投下されたのは終戦直前なので、私がこの曲を聞いたのは戦後44年経過した平成元年だったということになる。

私も40代半ばを超えてしまった。ということは、終戦からタイマーズがあの曲を歌うまでの期間以上の年を生きてしまったことになる。そして、タイマーズから31年もの時間が経過した。

私がLong Time Agoを聴いた時、今の私と同じ年だった人は戦争中に生まれたことになる。「もうそんな年になってしまったのか」と思うと同時に、戦争が急速に我々の生活から離れつつあることに気づかされる。

終戦の年、15歳であった人でも現在90才。実際に戦場で戦った経験のあるものはさらに年上である。しっかりとした頭で後世に記憶を伝えることがもう難しい年齢である。

毎年、戦争関連の行事が多いこの時期になると、私がタイマーズのあの曲を聞いた時代に、祖父を始めとする戦争体験者からもっと直接、戦争の話を聞いておけばよかったという思いになる。

様々な組織の中で中心となり、社会を動かしている人々の中で戦争を経験したことのある人はほぼいない。政治家からも戦中派はもう消えつつある。

究極の所、私のモヤモヤを作り出している最大の原因は「死」であると思う。いや、「死」自体はただ概念としてあるだけである。問題は、私がそれをどうとらえて、これから向き合っていくのかということ。そして、戦争について考える時、嫌が上でもその「死」を考えないわけにはいかない。

タイマーズが「Long Time Ago」で「44年前」を歌った平成元年は、戦争で死線を潜り抜け、戦後44年間生きた私の祖父が亡くなった年でもあった。

祖父の話を思い出す

大正時代に生まれた私の祖父は、その青年期と日本の暗黒時代が完全に一致する。

具体的な期間は聞いていないが、「若い時はずっと戦争に行っていた」と私に話した記憶がある。私の父と祖父は気軽に親子の会話をする間柄ではなかった。そのためか、祖父は孫である私によく戦争の話をしてくれた。

そんな話の中で、30数年を経ても私の中に強烈に残っているのは「死」に関連した話である。祖父にとって、「死」は「生」のすぐ隣にあるありふれたものだった。そんな感じがした。

私たちの身の周り、あらゆる場所に自然の生態系がある。その中では食物連鎖という「死のつながり」が普通に存在する。弱いものが強いものに捕食される現象、それが生態系の日常である。人間から考えると、生物個体にとってものすごくストレスフルな状態だ。

話から想像すると、祖父にとって戦争はそれと同じようなものであったのかもしれない。

川辺で洗濯をしていてワニに襲われて死ぬ。

現地の芋を食べたらその毒にあたって死ぬ。

マラリアにかかって衰弱して死ぬ。

20分前までいた陣地が爆撃され、残っていた兵が全滅する。

輸送船で移動中、自分の周りの船が次々と魚雷で沈められていく。

祖父にとって「死」はいたるところに転がっていたようだ。上のような話をよく聞いたが、特に陣地が爆撃された話は強く印象に残っている。

腰を痛めた祖父が陣地から離れた場所に運ばれた。その20分後に陣地が爆撃されて、祖父を運んでくれた人を含めて亡くなったらしいのだ。晩年頻繁に腰痛に悩まされていた祖父であるが、その時腰を痛めていなかったら死んでいたことになる。

祖父は復員後、祖母と結婚して家族を持った。当然、父も私も私の子供たちも、あの時祖父が腰を痛めなかったら、この世に存在していない。

今、ここに、こういう形で生きていることは、結果だけを見れば当たり前のように思えるが、その過程を考えれば奇跡に思えてしまう。私はそういう無数のつながりの最先端にいる。

死ぬ時何を思ったのだろう

祖父は、私から見て、ものすごく厳しい人であった。いつも何かをして働いていた。無駄遣いやふざけることが嫌いで、いつも難しそうな顔をしていた。

それは、貧しい時代に生まれ、青春時代をすべて戦争に費やし、多くの死を見て来た彼にとっては当然のことであったのかもしれない。自然状態にある人間以外の動物に「笑い」が存在しないのと同じで、生きるか死ぬかの状況を長く体験した彼にとって、険しい表情は標準装備だったのだろう。

そんな祖父が70を目前にして末期がんにかかった。多くの死を目撃した彼にその順番がやってきた。

本人には病名は告げられなかったが、すべてを理解していたようだった。病状は改善しないが、病院から自宅へ帰ることを希望し、祖父が家に帰ってきた。

あれほど元気で逞しかった祖父が日に日に弱っていった。私は妹と二人で父母の部屋に呼び出され「もうだめだ」ということが告げられた。私はうすうす気づいていたが、初めて向き合う身内の死に涙がこぼれた。

やせ細りほとんど動けなくなった祖父が口にした言葉を忘れることができない。秋が深まりつつあり朝夕の気温も下がったある日、「一晩表に出してくれたら死ぬから」そう言った。

自分の体が衰弱していく中で家族に世話をかけたくなかったのだろうか。それとも「そんなことを言わないで」といってほしかったのか。彼の生きた時代を考えると「もう充分だ」と思ったのか。

身近で数多くの戦友の死を体験した、そして私には語らなかったが自身も敵兵を殺める立場であった彼の死生観を私が知ることはできない。あの瞬間、祖父の脳裏に何が浮かび、どういう形で死を受け入れようとしていたのか、今だに私は考えさせられる。

意識が混濁し、やがてそれもなくなり下顎呼吸が始まる。祖父の周りに家族と親戚が集まり、順番に手を握る。私もすっかり痩せた祖父の手を握り、泣きながら声をかける。

呼吸が弱くなり、やがて止まった。医者がやってきて脈を測り、瞳孔に光を当て、そして祖父に向かって手を合わせた。

私は、初めて人が死ぬ瞬間に立ち会った。そしてこの時の光景は、私の中に時折蘇ってくる。

この世に生を受け、その生を謳歌し、そして死んでいく。すべての生き物の行動を単純に表せばこれだけのことだ。どんなに偉かろうと、どんなに富を持とうと、一度命を受けたものは、この宿命から逃れることができない。

不惑をとうに過ぎ、知命に近付きつつある私は、いまだにその宿命に心乱され続けている。

ここから抜け出す方法は頭では理解できる。「死」と同様に、その裏側にある「生」に対して真剣に向き合うこと。そこからしか、このモヤモヤを取り去る手段はないと思う。

頭で理解したことを、体と心に浸み込ませる作業、時間はかかるがコツコツとこの作業を続けていくしかない。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。