クリスマス飾りとキルケゴール・ニーチェ
週に1度、NHK高校講座倫理を聴いています。ここ1ケ月は実存哲学についての講義です。
前回はキルケゴールでした。クリスマスのイルミネーションで彩られた夜の街を歩きながら、キルケゴールの哲学をラジオで聞いていました。タイトルは「絶望を受け入れて」。
敬虔なクリスチャンであるキルケゴールの父親から「かつて神を呪ったことがある」という告白を聞き、精神的な「大地震」を経験したこと、清純な少女に恋をして婚約まで至りながら、彼の方から破棄したこと。そのような絶望を足掛かりに、人間の在り方=実存を深めていくという話でした。
人ごみの中、キルケゴールの絶望を考えながら一人歩いていました。おそらく、いや、確実に暗い顔をしていたでしょう。道行く人々の中でこんなことをしているのは私一人です。ちなみに番組の後半はニーチェでした。神の死を宣告した男の言葉が、クリスマスに浮かれる街で心にしみます。
私が世間からズレていることを感じる瞬間です。周りの人間で、高校生講座倫理をラジオで聞く中年オヤジなんか誰もいません。NHK第2放送すら聞きません。私は、同じ内容で再放送され続ける倫理を5年連続で聞いています。ラジオはほぼNHK第2しか聞きません。
そんな自分が嫌いでしょうがない、そんなことはありません。もちろん時に自己嫌悪に陥る時はありますが、暗いNHK第2放送ばかり聞くような人間でも、その内容は楽しめています。ただ、もう少し、一般的な、より多くの人に共有されるような番組や音楽を楽しいと思える心があれば、私の生きづらさ、モヤモヤも軽減されるかもと思ったりします。
実存哲学 真打登場
さて、高校講座倫理ですが、社会契約論からカント・ヘーゲル・マルクスを経て実存哲学です。キルケゴール、ニーチェに続き、本日は、ヤスパース、ハイデガー、そして真打サルトルの登場です。
哲学にそれほど詳しくない私が勝手に”真打”と言っているのは、実存主義と言う考え方を始めて知ったのはサルトルからだったためです。
大学時代、一人でヨーロッパを放浪したことがあります。パリのユースホステルで知り合った日本人大学生と、一日一緒に過ごしました。彼は哲学好きな医大生でした。彼に連れられるまま、モンパレナス墓地へ行きました。
彼はサルトルとボーヴォワールの墓を訪問したかったのです。私は恥ずかしながら、その時二人の哲学者のことを知りませんでした。彼が知的に見えました。日本に帰ってサルトルについて調べました。彼の実存主義は戦後の若者に絶大な影響を与えたことがわかりました。だから、私の中で「実存主義と言えばサルトル」という図式が出来上がりました。
そのサルトルについての今回の放送、今の私に強烈な一言を与えてくれました。記事のタイトルにもした「私たちは自由と言う刑に処せられている」です。
もう何年もこの放送を聞いているので、この言葉は繰り返し聞いているはずなのですが、今回は特別心に入ってきます。
無神論の立場から人間を見たサルトルです。彼によると「私たちは何者であるか」が最初から規定されているわけではなく、「私たちの行ったこと」によって事後的に私たちの本質が決まります。有名な「実存は本質に先行する」という考え方です。
しかし、神の存在を抜きにして、人間の行い、そしてその結果形成されて本質に対する、正邪の判断をどのように行うのでしょうか。また、それは可能なことなのでしょうか。私は放送を聞いた後、私の座右の書を取り出しました。
ストレスフルなアンガージュマン
ほんらい「参加する主体」は決断に先立って、どう決断するべきかの「正解」を知らないはずです。しかし、「評価を後世に持つ」と言うとおり、ある決断が正しかったかどうかは事後的に判断されます。つまり「歴史」が決断の正否の採決をすることになります。(中略)実存主義はこうして一度は排除した「神の視点」を、「歴史」と名を変えて、裏口から導き入れたような格好になりました。
内田樹著 「寝ながら学べる構造主義」P144~145 文春新書
サルトルの思想によれば、私たちは自由にものを考えて、自由に行動することができます。しかし、自由であるからこそ、日々変化する状況の中で、私たちはどのように振舞うべきなのか、待ったなしの決断が迫られます。私たちは、好む好まざるにかかわらず、状況に参加(アンガージュマン)させられているのです。
「実存は、人が距離を置いて思惟することのできるものではない。それは突然に君に襲い掛かるに違いない」
そして、その私たちの行いの正邪は、つまり私たちの本質は何であるのかは、歴史によって事後的に判断されます。私たちの自由に決断した行動は、私と私以外が構成する世界に対して何らかの影響を与え、そしてそのことで起こる結果に対しての責任は私にあります。
人間は自由であるからこそ、その後の歴史の審判に耐えられるだけの行動を選択し、そしてその責任を取らなくてはならない。「自由という刑に処せられている」状態です。
この私たちの状態、とてもストレスフルだと感じます。私は逃げ出したくなってしまいます。
神様に魅力を感じるけど…
ラジオを聞きながら、私はふと思いました。
「自由は制限されていても神様がいてくれたらなあ…」
「ある考えに従い、決められた行動をしておけば、それは常に正しいことである。」そういう導きがあれば、心が穏やかな状態でいられるのかもしれません。
「自由という刑」について考えると、逆に宗教が魅力的なものに感じられます。何も考えず、すべてを受け入れてくれるものを渇望したい気持にもなります。しかし、今までの放送で聞いた中世から近代の思想の流れを考えると、私の中にものすごい葛藤が生まれてきます。「それは違うだろう。後ろに戻っているだろう」と。
結局私は何を考えて、どう行動したらよいのだろうか。結局モヤモヤのままです。倫理とか哲学とか知らないほうが幸せに生きていけるのかもしれません。クリスマス前に、こんな暗いラジオ放送を聞きながら、自由の重さに悩む中年オヤジ、それが私の姿です。いったい何なんでしょう。
しかし、喉の渇きが水分を欲するように、私の心は時々渇いていて、その渇きは私を倫理や哲学、時には宗教へと向かわせます。困ったような、ありがたいような。
本日の放送、サルトルに先立ち、ヤスパーズの思想を取り上げていました。自分の力ではどうすることもできない壁、死・苦しみ・争い・贖罪、これらを「限界状況」と呼び、それに直面して挫折し、超越しようとすることで人は真の実存に目覚める。
私にとって、このモヤモヤ状態、心の渇きは、「限界状態」なのかもしれません。さて、これを私はどうやって超えていけばいいのでしょうか。
「私は理性と人間的な交わりを求めた。それは今日に至るまで私の哲学することの目標であり続けた」
ヤスパーズの言葉です。”理性との人間的な交わり”、別の言葉で言うと”愛しながらのたたかい”。
これからもモヤモヤを抱える自分を愛しながら、モヤモヤと戦っていきます。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
冴えない自分でも、とりあえずは認めてあげようか。神様、理性、実存、少しづつ理解していこう。