ぼーっと考える
自分の頭の中が100%クリアでスッキリとしていて何の心配事もない、そんな状態を今まで体験したことがないし、そもそもそんな状態は生きている中であり得るのだろうかと思う。何をしている時であっても大なり小なり心配事はあるもので、私は物心ついた頃からそれらと付き合ってきた。
当然、今この文章を書いている瞬間にも私の心の中には悩みというか心を乱されていることが存在する。ぼーっと考えながらそれらを書き出してみたい。
・皮膚が荒れている。薬を塗ってもなかなかよくならない。老化か。
・家の換気扇の調子が悪い。買い替えにいくらかかるのだろう。
・あと40日でイタリア語検定がやってくる。作文がなかなかうまくならない。
・授業の準備が進まない。新しいことをやりたいと思うが、中身を考えることを避けている。
・バイクに乗っていない。暑くて乗る気にならない。わけもなく走行距離を伸ばさなくてはならないという気持ちになる。
・勉強しなくてはならない時間に眠気がやってくる。夜睡眠時間を確保しているつもりでも眠りが浅いのか。
・最近図書館に行っていない。本が読めていない。
・ブログがなかな書けない。語学と教育について語るブログを立ち上げようと思うもの先に進んでいない。
・動画を撮ろうと計画しているが全く進んでいない。
・車の車検が迫っている。だいぶんボロく新車購入も検討したが、私がほしい車に対して妻が理解を示してくれない。あと2年乗るか。
・お酒を控えているのに下腹の肉が取れない。
・奥歯が少し虫歯気味になっている。ずっと良い歯でい続けたいのに。
・最近暑くてエアコンの使用が増えている。電気代が気になる。
・妻の友人が困っている話を聞いた。私も知っている人だ。何とか助けてあげたいが私にできることはほぼない。
このように私の心の中で波打っていることが次から次へと浮かび上がってくる。書こうと思えばこの数倍はリストを長くすることができる。
サウナのよう
私がどんな状態であっても、このように小さな悩みは尽きることがない。ある悩みが解消されたとする。それで私の悩みリストは短くなるかといえばそうではない。悩みも突き詰めて考えれば脳による言語運用の作用であるから「悩みを考えよう」と思えばリストはどんどんと長くすることができる。
問題はそんなことをあまり考えていない時、つまり悩みを意識しない時に私の頭の中に浮かび上がり心を乱す邪念というかモヤモヤというか、つまり結局は悩みなのである。
そのような悩みが一つだけ前景化する時はまだよい。嫌な一日になるのは同時に4つも5つも発生するときである。そんなとき、私はどこに向かって考えを進めたらよいのかわからなくなる。そして結局自分の戦う相手の見えないままモヤモヤと気持ちの沈んだ一日を終えることになる。
そんな私の気持ちが、毎年夏になると、変な言い方をすると”すっきり”とすることが多い。私の中の小さな悩みが消えるわけではない。相変わらず数えだしたらきりのないぐらいの悩みがあるが、それらが無意識の領域に移動してしまうのだ。
その理由は小さな悩みをまとめて移動させるぐらいの衝撃を私の脳が受け取るからである。
沖縄の組織的戦闘が終了した6月末から8月15日の終戦の日にかけて、私は毎日のように新聞やテレビやネットで戦争の惨劇を伝えるニュースや報告を見聞きする。それに8月12日の日航機墜落事故と9月1日の関東大震災が輪をかける。
私は今までそれらの事件や事故からなるべく目をそらさずに生きてきた。時には「心のためには読まないほうがいいかも」と思うこともある。しかし、思わず記事を読んでしまう。
私が直接生命を脅かされた事件や事故ではない。しかし、知ってしまうと悲惨な目にあった人々の心に共感しようとしてしまう。自分が同じ立場にいたらと考えてしまう。時にはとても苦しくなり眠れないこともある。寝れたとしても悪い夢をよく見る。
しかし、それほど大きな衝撃を受けると私が日ごろ考えているような小さな悩みは見えなくなる。というか、それらが悩みであると考えることが恥ずかしくすらなる。
「こんなことで悩むことができる。そして明日をむかえることができる」
今年も戦争や事故の記事を読みながら私は何度もこう思った。
サウナに入ったあと頭がすっきりする理由に、頭が余計なことを考えなくなることがあるらしい。私たちの脳はバックグラウンドアプリのように常にいろいろなことを考えているが、高温に体がさらされた状態では、そんなことよりも危険信号を送り体を守ることを優先するからだ。
私の悩みと8月の関係もこれに似ているのかもしれない。毎年、私の想像できないような悲惨な世界を脳が追体験する。それと比べるとどうでもいいような些細な悩みに脳が使うエネルギーは無い。
時には記事を読みながら涙することもある。そんな後は、不謹慎かもしれないが、不思議と心の疲れがとれている自分に気づく。どうでもよいようなことでああだこうだと悩むことができる世の中に生きている、その現実に感謝する気持ちが湧き上がってくる。
私の心の状態は、文字通り死ぬほどの苦しみを味わった人々の上に成り立っている。申し訳ない気持ち。私じゃなくてよかったという気持ち。私ならどうしてたかという気持ち。私と私の外側が一つにつながっている不思議な感覚。それらに包まれながら、私は悩みの中にも安心して明日を期待できる心を保つことができる。
アンビバレント
墜落事故を日本航空職員として経験した男性をテレビで見た。もうおじいさんの顔になっている。当時20代後半だった彼も今は60代半ばになる。事故を経験した職員の数は、今会社全体で1%代だという。誰もが平等に歳をとり、そして事件から遠ざかっていく。
戦争に関してもそうである。今私たちに体験談を語るのは終戦当時小さな子どもだった人が中心になった。昭和20年に二十歳であった人は今年で98歳になる。戦場を経験した兵士で、しっかりとした口調で当時のことを語れる人はほぼいなくなった。兵士を送り出した親たちはもう残っていない。
悲しみを力のある言葉で直接語ることができる人がどんどんと減っている。悲惨な経験や記憶を受け継ぐことが課題になっていると今年も多くのメディアで報じられていた。
戦争体験者の数がどんどん減っていくこと、これはある意味よいことかもしれない。時が過ぎ、人が歳をとって死んでいくのは世の摂理である。その時間の経過の中で新たな戦争が起こらなければ、つまり平和な世の中が続けば、やがて戦争体験者はいなくなる。
私が生まれて生活するこの国は、78年間戦争のない状態が続いている。明治維新から太平洋戦争が終わるまで77年である。この間、日本は内戦を二度経験し、清、ロシア、中国、そして連合国を相手に戦った。いつの年代でも国中に戦争体験者がいたことであろう。そう考えると「戦争体験者の減少」が課題となる状態とは、ありがたい状態であることがわかる。
この記事は私の小さな悩みから始まった。戦争を始めとする悲惨な話を目にすることは、私の小さな悩みを一時的に消してくれる。そんな現象が8月になると頻繁に起こる。
これから先、平和な時代が続いていけば誰も8月になっても戦争を語らなくなるのであろうか。確かに体験者の数はゼロになるであろう。メディアでどう扱われるかは分からいが、リアリティが薄まった形にはなるだろう。
私自身の心の状態はどうであろうか。戦争について誰も語らなくなると、私は小さな悩みをたくさん抱えたままなのだろうか。そんなことはない。私はすでに多くのことを知ってしまったし、これからも知ろうとするであろう。
生老病死、とりわけ死は私の最大の関心事であり悩みでもある。そんな死と最も直接的につながっている戦争に関して私は無関心でいることができない。これからも、どこへ行ってもその痕跡を探そうとするであろうし、折に触れて過去に見聞きした証言を思い出そうとするだろう。
他人の悲惨な体験は私の小さな悩みを消し去ってくれる。その体験は聴きたくないことであるが、同時に聴きたいことでもある。アンビバレントな感覚である。
私は、苦しんだ人々によって生かされていると思っている。申し訳ないが、死ぬ苦しみを味わった人の存在が、そうではない私の状態を浮かび上がらせる。だから私は苦しんだ人々のことを忘れない。戦争の記憶が薄くなり語る人がいなくなっても、私は自分が生きている限りこれらの人々のことを思い出し、哀悼の意を表すと同時に平和が続くことを願い続けるであろう。
関連記事: 8月後半の気分