私の時代が来た?

ポートライナー三宮

ある土曜の午後、私はポートライナー三宮駅からJR三ノ宮駅への連絡通路を歩いていました。改札を右に折れて2階の通路を歩き、エスカレーターで地上にあるJRの改札へと下っていきます。その途中、エスカレーターに乗った私は思わず心の中で叫んでしまいました。

「アッ、私の時代が来た!」

目の前には、壁一面に嵐の二宮和也さんの看板があります。

伊藤ハムの看板

「煮るなり、焼くなり、二宮和なり推奨!」の文字の横にアルトバイエルンを手にした彼がこちらを見つめています。私はドキリとしました。ジャニーズの、しかも嵐のメンバーが堂々と自分の名前をネタにしてオヤジギャグを言っているのです。

私は家に帰るなり妻に「私の時代が来た!オヤジギャグを人前で言ってもいいんだ」と興奮気味に語りました。

妻は「今更何を」という顔をしています。実はこの伊藤ハムの宣伝はずいぶんと長い間TVコマーシャルで流れているようで、普段TVを見ない私は知らなかったというわけです。それに「言っているのがニノだから…」

確かにそうです。カッコいい人は何を言ってもサマになるし許されます。メッセージはそれが発せられる時の周りの環境込みで理解され、評価されるものです。そしてメタ・メッセージはメッセージよりもはるかに人の心に届きます。ニノがそうだからといって、私が同じようなギャグを発してもその解釈は同じなはずがありません。

「私の時代が来た」とわずかな時間のぬか喜びでした。では現実に戻って話を続けます。

100越え

私は、このブログで今まで3つの「オヤジギャグ」に関する記事を書いてきました。

去年の6月19日「エクリチュール?」、今年2月12日「ひどくなってます」、2月19日「ひどくなってます」(続き)です。

記事を書いたきっかけは、私は言語に関して興味を持っていますが、その言語運用がオヤジギャグによってかなり影響を受けてきていると感じたからです。

あることばを発したとき、その言葉に反応して別の言葉が浮かび上がってくる、私の中でその回数がどんどんと増えてきたのです。例えば、肌が荒れたとき、私はオロナインなどの軟膏を塗ります。その「なんこう」という言葉に反応して落語家の「桂南光さん」が浮かび上がってきます。

そこから先は、肌に塗る薬を普通に「軟膏」ということができません。声には出しませんが。心の中で「医者からもらった(かつら)軟膏はどこかな?」となります。

そして、そのうちその適応範囲が同音異義語になってきます。つまり「軟膏」だけでなく「建設作業が(かつら)難航してるようだ」となってくるのです。大阪で旅客フェリーが発着している港は(かつら)南港です。何が言いたいのかよくわかりません。

私は、以上のような無意識に既存の言葉にかぶせて使っている言葉をノートに書き始めました。去年の6月のことです。その数は今100を超えてしまいました。ただしこれは「一般の人に聞かせることができる数」であり、実際には私の周りの個人名であったり下ネタなどはるかに多くの言葉を使っています。

書き出すことで、私の心の中で「その言葉を使っているという事実」が強化されます。その結果、必要以上にそれらの言葉を使うことになり、不必要に定着することになります。

私の日本語の言語運用は、いったいどこへ向かおうとしているのでしょうか。時々不安になることがあります。特に最近ひどいと思ったものを二つ紹介します。

ヤバいデン

アメリカ大統領にジョー・バイデン氏が就任し、そしてそのファミリーネームから「ヤバいデン」が浮かび上がって以来、1日に数十回使う言葉になってしましました。

「ヤバい」は現代日本の口語において、最も使用頻度の高い言葉の一つです。あらゆる場面において私が「ヤバい」を口にするとき、即座に私の心の中から「ヤバいデン!」とコダマが返ってきます。一人でいるときは実際に「ヤバいデン」と声が出てしまいます。

そうやってくり返し使ううちに歌と歌詞が浮かんできました。メロディーを伝えることはできませんが、歌詞を記します。

「♪バイデン バイデン どんな塩梅でんか~」
「♪バイデン バイデン ちょっとやばいでんな~」

私は今年春頃、気がついたら一人でこの歌を口ずさんでいるという本当にヤバい状態になりました。今は一時期よりましな状態になりましたが、その代わりバイデン氏に関する英語のクイズが使いたくてしょうがありません。次のようなものです。

問題:以下の英語をコテコテの大阪弁に翻訳しなさい。

  A: Hew is the president of the U.S.?
B: He is rather good.

解答:A: 「アメリカの大統領どないでっか?」
   B:「ええ塩梅でんなあ。」

私は自分の周りで英語ができる人を見つけると、このクイズを出します。声を上げて笑ってくれる人もいれば、苦笑されることもあります。「ヤバいデン」が浮かばなかったら取らなかったであろう行動様式を、今私は実行しています。それに伴って周りからみた私の姿も変わってきます。

言葉が思考を作り、それが行動につながり、私の周りの私以外が作り出す無数の網目によって、私の輪郭が浮かび上がってきます。バイデン氏を見て何も浮かばなかった私と、「ヤバいデン」に取りつかれた私では違う人生を歩んでいます。どちらがよいのかは知る手段がありません。

ただ私は「ヤバいデン」以上の強力な言葉に出会うまでこの状態が続くのかと思うと少し気が滅入るのです。

コーヒーいる?

通常、私のこのオヤジギャグ的な言葉の反応は、一つの言葉に対して一つの反応が現れます。例えば「行ってきます」という言葉に対して「行ってきますだおかだ」、「追い焚き」に対して「追いタッキーアンド翼」という風にです。

しかし、この前ついに一つの言葉に対して二重に反応する言葉が被ってくるという事態が起こりました。日曜日の朝のことでした。

早起きした私が自分用のコーヒーを作ろうとしたとき妻が起きてきました。小袋に入ったドリップコーヒーを作るつもりでしたが、妻も飲むのならコーヒーフィルターを使って作ろうと思い「コーヒーいる?」と訊ねました。

数秒後、もう30年近く忘れていた名前がジワジワと脳裏によみがえってきました。それは「小比類巻かほる」さんの名前でした。80年代後半から90年代にかけて人気のあった女性歌手です。

私はその当時ハードロック・ヘヴィーメタル一色だったので、彼女の歌は全くといっていいほどわからないのですが、友人たちが聴いていたことは覚えていました。

そんな私にあまり縁のない歌手の名前が、なぜか妻に放った一言から浮かび上がってきたのです。「これで『コーヒーいる?』も普通に言うことができなくなった。これからは『コーヒーいる?巻かほる』になってしまった」こう思っていると、浮かび上がった言葉が変化をし始めました。

以前書いたように、私は「まき」という音が出てくると、心の中で前に「カルーセル」というクセがあります。のり巻きは「のり(カルーセル)巻き」、硬貨をまき散らすは「硬貨を(カルーセル)まき散らす」となります。

今回この「カルーセル」が「小比類巻」にくっついてしまいました。その結果「コーヒーいる?」という言葉を発するとき「コーヒーいる(いカルーセルまきかほる?」と後半部分は意味不明のフレーズが立ち上がってくるのです。

変な言葉をつけずに「コーヒーいる?」とだけ聞こう、そのように考えて言葉を発するのですが、そう思うことがかえって「小比類巻かほる」や「カルーセル麻紀」の存在を意識させてしまい、後で言い直したりするのです。

不安と安心

このような状態が続くと、私はまともに日本語を使って考えることができなくなるのではないかと不安になります。自分では自分のことを狂人であると思っていませんが、今心の中だけでとどめているこういったオヤジギャグのフレーズを口に出し始めたら、周りの人に気が触れたと思われてもおかしくないでしょう。

変な言葉を使っていなかった頃の私にはもう戻れないのかと思うことがあります。頭のなかで思考をするたびに、特定の言葉にオヤジがギャグが結び付き、そのノイズが入ったまま考えが展開していく、その状態から私は戻ることができないのでしょうか。

こういう不安を抱える一方で安心する要素もあります。それは、私がモヤモヤに苦しんでいる間は、このような軽快な言葉使いが出てこないということです。ブログを書き始めて、私の心が軽くなればなるほどオヤジギャグはひどくなっています。

それはモヤモヤが少なくなることとトレードオフの関係かもしれませんし、ひょっとするとそのような言葉が脳内で、パソコンの下で動き続けるアプリのように、出番を待っていることでモヤモヤになる隙を与えていないのかもしれません。

また、もう1つ安心する要素として、読書中はこれらの言葉が反応してこないことがあります。自分の口から「段取りを考える」という言葉が出てくると、すぐに「ダンドリー(チキン)を考える」または「段取りをチキンと考える」と反応するのですが、読み物ではスッと流すことができます。

おそらく言語の使用に対して能動的な状態と受動的な状態では、脳の違う部分を使っているのかもしれません。文字情報からも反応し始めたら、私は今までのように本を読むことができなくなります。それは私にとって恐怖です。ひとまずは安心です。

私のこの癖がどこに行きつくのかは分かりませんが、今回は二宮和也さんに少し救われた気がしました。もっともっと多くの人がオヤジギャグを疲労してくれたら、私にとって心強いのですが。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。