謹慎
新聞の地域欄を読んでいて驚いた。神戸市内のある私立高校の教諭兼硬式野球部コーチに対し、日本学生野球協会は謹慎3ヶ月、学校法人は出勤停止2週間の懲戒処分を下したという。
処分の理由は部員への体罰と報告義務違反、この教諭は自分の授業中寝ていた部員の頭を出席簿でたたいたという。たたかれた生徒の保護者からの申し出により学校側が調査、それにより体罰が発覚した。
問題が起こった授業は昨年秋、保護者の申し出は今年9月、新聞に掲載されたのは今月13日である。
私はこの記事を読んで何とも重たい気持ちになった。卑怯かもしれないが教育現場から早く逃げ出したい、そんな気分でもある。私はGez-Zたちを相手に仕事をするには思考が硬すぎ、それはお互いにとって不幸なことなのかもしれないと思う。
授業中、教師が自分がコーチを行なっている部員が眠っている姿に気づいた。その頭を出席簿でたたいた。それが約1年かけて事件になり、野球部コーチとしては3ヶ月の謹慎、教諭としては2週間の出席停止を受け、そのことが先週各新聞の神戸地域欄で報じられた。
私は思う、いったいどんな強さで何回生徒の頭を出席簿でたたいたのだろうか。出席簿の表面は厚紙ではなく、鉄のようなものだったのだろうかと。
しかし、教諭が出席簿が凹むぐらいの強さでたたこうと、軽く撫でるようにそうしようと結果は同じであると思う。「教師に出席簿でたたかれた」という言葉で二人の関係が切り取られ周りと共有されれば、それは勝手に歩き始める。
耐性
「人の頭を出席簿でたたくことはよいことですか悪いことですか」
「時と関係性と程度によって決まるでしょう。良いことであると同時に悪いことでもある」
私ならそう答えると思うが、そんな答えは教育現場では許されない。「先生に頭をたたかれた」その訴えによって教師の立ち位置は決まってしまう。
私たちは目の前の現象を100%の精度で切り取る言葉を持つことができない。異なる程度の現象を同じ言葉で表現せざるをえないのだ。しかし、浮かび上がってきた言葉で教師は裁かれることになる。「生徒の頭をたたいた」教師を擁護してくれる存在はない。
現在の教育現場では生徒を不快にさせないことに異常なくらい神経を使う。なぜなら、物理的な接触(体罰)以外にも「精神的に不快な思いをさせられた」と生徒が訴えれば、教師はどうすることもできないからだ。
現在の学校現場は、物理的にも精神的にも傷付いてはならない場所である。それは教師から生徒に対してだけではなく、生徒同士であっても同様である。
「私は消毒・漂白された場所で仕事をしている」この記事を書きながらそのような言葉が浮かび上がってきた。
・性別に関わらず生徒に対しては苗字の後ろに「さん」をつけて呼ぶべきである。
・教材を選定するとき「暴力的なもの」「生徒が経験した悲しみを思い出させるもの」「死に関するもの」を用いてはならない。
・個人的な記録媒体に生徒の画像や情報を残してはならない。
・学校で書かれたものはメモ一つであっても公文書となり公開の対象となる。
・学級通信等生徒や保護者の目にふれる文章を出すときは、必ず管理職のチェックを受けること。
かつて当たり前にできていたことが、私たちの現場では次々とできなくなっている。何とも言えない「全て無難に過ごしていこう」という空気が濃くなっている。
そしてそれに伴って生徒たちが「不快である」と感じる耐性はどんどん低くなっている。いじめの定義は「いじめられた方がいじめだと感じた」部分にある。体罰も似たようなものだ。受け手が精神的な苦痛を感じればそれは体罰となってしまう。
疲れた
私はいじめを肯定しているわけでも物理的な体罰を復活させろと言っているわけではない。
実際に教師や友達から軽い一言を言われただけで手首を切ろうとする生徒もいるであろうし、ポンと軽く頭をはたかれただけで死にたいと思う人もいるであろう。
新聞に載った高校の教師は出席簿が凹むぐらいの強打を生徒に浴びせたかもしれない。しかし、たとえそれがほんの軽いはたきだとしても受けた生徒によっては心の傷となりということは十分にありえる。
私が言いたいのは、つまり私たちはそういう世の中に生きているということである。あらゆる場所が消毒・漂白された世界。その最前線のひとつが学校現場にある。
私はそんな現場で疲労を感じながら仕事をしている。そこでは自分の経験と直感に従って、時にはギリギリのラインを見極めながら子供を育てることよりも、まずは失敗しないことに重きが置かれる。
「今の一言は大丈夫だろうか?」「今日の対応に相手を否定する要素はなかっただろうか?」いつもそんなことを考えながら仕事をする。
寝ている生徒を起こす時、どうしようか考える。声をかけるか背中をノックするか。私ではないが、肩に軽く触れられた生徒が医者に行き診断書を持ってきたケースがあった。
生徒同士が揉めていたら、小さなことであってもすぐに親と連絡を取って報告する。生徒が自分の口で親に言う前にこちらが先手を打って報告する。「〜君と〜君が言い合いになってたのでこういうふうに収めました」と。高校での話である。
生徒同士が喧嘩しようものならもう大変である。片手以上の教師が遅くまで学校に残り、常に管理職の判断を仰ぎながら保護者対応を行う。それは時に数週間に及ぶ時もある。
そんな空気感の中でストレスをためながら働くのははっきりいってしんどい。もちろん高校教師をしていていいこともたくさんある。それにこの消毒・漂白された空気の裏側にはそれと対をなす勘定科目があるはずである。
確かに、部活動顧問による理不尽な暴力や先輩による後輩へのしごきなどは、昔に比べて明らかになくなった。生徒同士のナワバリ争いや威嚇行動も昔の話になった。その他にも時代が変わりよくなったことはたくさんあるはずである。
それでもやはり私は今の空気感がしんどい。私にとっては良いものと悪いもの、綺麗なものと汚いもの、建前と本音、その境界線があまりはっきりとしていない世界の方が居心地がいい。そしてそのような混沌とした世界の中で、手探りをしながら落とし所を見つけるように生きていきたい。
やはり私は教育現場を一度去るべき人間なのだと改めて思った。今、私は猛烈にプロレスとヤクザ映画を見たい気分である。