第1段階終了

ぐるりと一周

私の実家には母屋に隣接して2階建ての車庫があります。一般的にイメージする自動車用の車庫に比べると倍ぐらい床面積を有しています。

これは自動車以外に農業機材の倉庫も兼ねて建てられたものだからです。稲木を使った天日干しをやめるまでは、車に並んでここに稲刈り機やコンバインも収納されていました。

そのちょっとした車庫の2階を、私はこれからの人生の大切な舞台にしようと考えています。以前にも書いた明石焼きの店舗兼相撲バーです。

2階の一角にカウンターを作り、そこへ今はもう手に入らない安福康弘さん手作りの明石焼きセットをプロパンガスや水回りの設備と共に設置します。一角にはスクリーンとスピーカシステムを置き、大相撲中継や取り組み動画が流されます。私にとって夢のような場所です。

土地と建物はあるので改装費が一千万円ほどあればそれはすぐに出来上がります。しかし今の私にそのようなお金はありません。だから少しずつDIYを行うのです。

私は昔から工作など苦手な人間でした。面倒臭い設定や配線はお金を払ってやってもらうタイプの人です。しかしそのお金が足りなければ自分でやるしかありません。幸いにも私の父親は、できることは自分でやってきた人です。

私は父親に何からやればよいのか聞きました。そして、とりあえず痛みの目立つ外観から整えることにしました。簡単にいうとトタンにペンキを塗る作業です。

書けば簡単ですが、私はこれを行うのに父親と二人で1年かかりました。ペンキ塗りの作業は単純です。

1、塗装面を洗浄して乾燥させる。

2、そこに塗料を塗って乾燥させる。

以上になりますが実家の車庫は2階建てです。一番上は梯子を伸ばしても届きません。だから鉄パイプで足場を組みます。

業者に頼めばすぐに立派なそれができますが、費用をかけたくない私たちは自分で組みます。これが一筋縄では行きません。規格化された部品をもっていないので、ビニールハウス用の鉄パイプとそれを繋ぎ合わせる金具を用います。足を乗せる部分は木の板を繋いでつくります。

資材量に限界があるので、少しずつ組んでは洗浄→乾燥→塗装、そして足場を解体してまた同じようなプロセスを繰り返します。

私が神戸から実家に帰ることができる日のうち、農作業がなく天気がよいというシビアな条件下でこの作業を行ったところ、車庫をぐるりと一周するのにまる1年かかったというわけです。

DIY前の難関

錆だらけ築40年以上の古い車庫が、見違えるようにきれいになりました。父親は何も言いませんが、18歳で実家を出たきりもう帰ってこないと思っていた息子が再びここに足場を築こうとしていることに嬉しそうな表情です。

車庫の軒先に提灯と暖簾と看板を取り付けたら店になりそうな雰囲気ですが、外壁の塗装はまだ第1段階終了に他なりません。それもこの先何段階あるのかわからない中での「第1」です。

手順としては建物内側の鉄骨に錆止めを塗り、内装の壁を作り、下に水回りのパイプが通せるようにかさ上げした床を作り、水道と排水溝を通す。これがカウンターや調理設備といった上物を作るまでの工程であると思います。

しかし私はわかっています。これらの前に私も父母もなるべく考えないようにしてきた難関があることを。それは、この店を作る車庫の2階の整理です。

私の家は歴史のある家ではありません。しかし、ここには物のない時代に苦しんだ私の祖父母が暮らしていました。

祖父母は戦争経験者です。特に祖父は日中戦争から終戦までずっと軍隊にいました。そこで飢えや病気により何度も死にかけたのち日本に帰ってきて祖母と結婚しました。

食べ物がないことや物がない苦しみが骨の髄まで達してしたので、とにかくそれらを捨てるという発想がありませんでした。

祖父は私が高校生の時に、祖母も10年前に亡くなりましたが、二人は大量の物を車庫の2階に残しました。私の父母も下手に収納スペースがあったため、その処理を先送りし続けました。

そしてその処理に今私が取り掛かろうとしているのです。片付けを考えると気の遠くなりそうな山の中から、とりあえず私の物を捨てていきます。

1000冊を超える本、漫画、雑誌、高校の時に聞いていた数百本のカセットテープ、これらが今までに私が処理できた全てです。

次は私の衣類に取り掛かります。この家に住んでいた時のものが丁寧にもとっておいてあるのです。

私の物が終われば、いよいよ本丸です。祖父母の衣類、食器や台所用品、何に使うのかわからない農機具、昔の電気製品、その他開けたこともない数々の箱。

どれくらいかかるのか検討がつきませんが、父母の気持ちを害することなくこの2階に何もない平面を作るのがDIY第2段階の前の難関です。

最後の段階

私もあと3年弱はフルタイムで働くので、できる時にできることを進めていくしかないのですが、最近私の明石焼き屋+相撲バーの最後の段階について考えるようになりました。

その最後の段階とは、店が出来上がった後ここに誰を呼ぶのかということです。

そもそもここに店を作りたいと思ったのは私が生まれ育った田舎に人々が集う場所を作りたかったからです。そこには私がこの地域に残らなかった罪悪感のようなものも半分含まれています。

私は18歳で家を出ました。以来、実家に帰るたびに地域に若者が減り店が無くなり寂しい場所になっていくのを感じ続けていました。

そんな中でも私が田舎に帰れば声をかけてくれる人がいます。幼なじみやその親たち、または父母と親しくしている人々です。私はそのような人々が集える場をつくることが恩返しになると考えています。

だからまず来てもらいたいのは、昔から私を知る私の田舎の人々です。

実家を出て大学に進学し、その後高校教師の仕事を続けています。大学、職場、地域、行きつけの店、それらで出会った人の中には私のこの計画を知り応援してくれている人がいます。

そのような人にも来てもらえればと思っています。

最後に、この店の計画はこのブログを書くことなしには出てこなかったことです。私はこのブログの記事を、私と私のオルターエゴである大和イタチで会話し、読んでくださる皆さんの反応を想像しながら書いています。

もともと自分と向き合い心を整えるために書き出したブログなのでコメント欄を開いていません。いろいろな声に惑わされることなく自分の奥深くへ入っていきたいからです。

ただ読んでくださる人がいるということは、私がこのブログを書く大きな励みになっています。私は読者のみなさんの存在を感じることで記事を書くことができ、それによって癒されています。本当に感謝しています。

現段階では、時折見る閲覧数の数字でしか皆さんを認識することができません。しかし、いつの日か応援してくださる皆さんの中で私の店に興味を持たれる方がいれば、来ていただく機会を作ることも考えています。

私の明石焼き兼相撲バー計画の最終段階は、地域の人、私の知り合い、読者の皆さんをどのような形でお店に迎えるかということになりそうです。

しかも私の好きなこと、語学講師や通訳案内士として働き、旅をして、記事を書き、本を読み、農業をしながら店を開くのです。どう折り合いをつけていくのか想像がつきませんが、それは少しずつDIYをしながら考えていきます。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。