兼業農家
詳しいことはよくわかりませんが、私の実家はもともと農地を持っていなかったようです。それでは小作百姓であったかというとそれも違うようでした。昔祖母が私に話してくれた記憶によると、彼女が祖父と結婚した後二人で貯めたお金で田畑を購入して作り始めたようでした。祖父は仕事に行き、祖母は家で和裁を行って暮らしを立てていたと言います。
二人が結婚ししばらくしてから田舎でよくある兼業農家が誕生しました。終戦後おそらく昭和20年代後半のことだと思います。そのあたりのことは父親に聞いてもはっきりしません。祖父母ともっと話をしておけばよかったと悔やまれる部分です。
ともかく祖父母が兼業農家を始めて以来、私の実家では米作りを続けてきました。祖父は力強い人でした。私が物心ついた時には退職していて、とにかく朝から晩まで田畑で働いていました。
少しでも多くの作物を作ろうとしていたのでしょう。余った農作物は農協に出荷していたようです。祖父からは戦争中に飢えを経験した話をよく聞きました。その時代を経験した人にとって毎日お腹いっぱい食べることは当たり前のことではなく、食料を生産できる土地を持つことは命をつなぐ財産を持つことと同じでした。
祖父が亡くなり、祖母と父親が中心となって米作りを続けてきました。出荷するわけでもなく、自分たち家族と周りの大切な人が食べていけるだけの量です。
祖母は長生きしましたが、それでも80歳を超えると農作業はきつくなります。父親を中心に母親が手伝い、私もたまに手伝いました。私は実家を離れて暮らしていたので、手伝いといっても当てにされないものでした。田舎には田舎のコミュニティーがあり、本当に必要な時は助け合えるような関係があります。
当てにされていなかった私のヘルプが当てにされるようになったのは昨年のことでした。父親の足腰が痛み始め、長時間の農作業や重いものを持つ作業ができなくなってきたのです。私は月に一度か二度、車に乗って実家に帰るようになりました。田んぼに手を入れ始める3月から収穫の9月まで、私は自分の休日のスケジュールを考える時、まず実家の田畑のことを考えるようになりました。
波打つ稲
今年も何度か日帰りで実家に帰りました。田んぼを起こして耕すのは父親がトラクターで行います。畔に生えた草を刈り払い機で刈るのは私の役目です。その後、二度にわたって肥料を撒いていきます。規模の小さな田んぼなので「まくぞー君」という人力で撒くための道具を使って行います。これは重くて時間がかかるので私の仕事です。
5月に入れば苗床を作ります。昔は籾から自分たちで苗床を作っていましたが、今は手間がかかるので芽出し苗を買っています。その苗を育てる空間を家の近くの畑に作ります。凸凹な畑を平らにならすのは今の父親にとっては重労働です。できるだけ私が帰ったタイミングで行います。
田植えは共同購入している田植え機で行います。最近私はこれには参加していません。田植えが終わると除草剤を撒いたり、追加で肥料を撒いたりします。この間ぐんぐんと畦の草が伸びるので月に一度刈払いを行います。
こんな感じで田んぼに稲が育っていくわけですが、先日私は初めて田植え後の追肥を撒きに実家に帰りました。これは田植え前の肥料と違って田んぼの中に入って撒くことができないため、小さなエンジンを使ったマシンで畦から飛ばします。そのマシンと肥料の重量が父親の腰では支えられなくなったため、私の出番がやってきました。
父親と道具一式を軽トラックに積み込んで田んぼに向かいます。
一か月ぶりに田んぼを見てみます。何か少し変な感じがします。私はそれが何なのか言葉にすることができませんが違和感を感じます。
父親が私に言いました。
「肥料にムラがあったんだろうな」
田んぼで育つ稲をよく見てみると場所によって育ちが違うことがわかります。そして、その育ちの悪い稲が田んぼの端から端まで何列かの筋状に波打っています。
原因は私でした。田植えを行う前に「まくぞー君」を使って二度肥料をまきました。田んぼの端から端まで何度も往復しながら撒きます。その肥料の分布が不均等だったのです。肥料が重なった部分は多すぎ、重ならなかった部分は少なすぎ、少ない部分の生育が悪くそれが筋状に見えたのです。
「そんなに細かいものなのか」と思いました。多少の不均衡はあっても水を張るのだからそのうち混ざると思っていました。父親は今まで細心の注意を払いながら肥料を撒いてきたのでしょう。
そういえば父親と農作業をしていると「そんなことまで気にするのか」と思うことがありました。苗に水をやるときや、籾を撒くときは特にそう思いました。
農業、特に米作りは自然に見えて、植物にとってものすごく不自然な環境を作り出しています。高温多湿な状態の下、栄養たっぷりな土壌の中、単一の植物を短期間の間に育成するのです。
普通そのような状況では多種多様な植物が混ざり合って植物相のバトルロイヤルを繰り広げます。しかし稲作では人間が管理することで、そこに稲だけを集中的に育てます。それ故、少しの入力の差が育ちに大きく反映するのだと思いました。
安心をもたらす要素
この年になって農業の難しさと深さを実感しています。今までそれを感じなかったのは、私が傍観者だったからです。私は祖父母や両親が作った農作物を消費する立場に過ぎませんでした。たまに手伝うといっても、必要条件としてのヘルプではありませんでした。
私は昨年、傍観者から当事者に変わりました。米作りの期間中、私が5~6回帰省して手伝わないと、その収穫量は変わってくる状態になりました。収穫量が変われば私たちが食べるお米を買わなくてはならないかもしれません。
「ダメならダメで仕方ないし」
稲と稲の間に生えた雑草を見て父親が言いました。今年は今まで田んぼの中に入って撒く除草剤から畔から投げ入れるものに変えたそうです。前者の作業がきつくなったためでした。その結果、例年にない雑草が生えてきました。その雑草を見ながら父親は収穫が少なくてもよいと言っているのです。
もちろんお米が採れなかったらお米を買うだけです。それぐらいの経済力はあります。しかし、それができるから農業をやめてしまえばいいということとは何かが違うと私の直感が告げます。
農家には十数代も続いてきた家が数多くあります。私のところは祖父母が始めたので私でたかだか三代目です。先祖伝来の土地というわけではありません。
しかし、生きる糧を生み出す土地を持つことには何とも言えない安心感があります。なぜでしょうか。それは近代の成立と関係していると思います。
近代の一つの側面は、衣食住の「食」以外に関わって働く人々が増えたことだと思います。人々は生命としての人間を維持していくこと以外に力を使えるようになりました。それらの人間の欲望がさまざまな産業を興し、都市が誕生しました。産業や都市を維持する「労働者」を大量に必要とする時代になりました。
この辺り、私の乏しい知識で書いているので見る人が見たら「それは飛躍しすぎだ!」と不快感を示されるかもしれません。申し訳ございません。
私が言いたかったのは労働者を生み出す過程で必要なことが人々を土地から切り離すことだったということです。産業革命で起こった「囲い込み」と私が農地を失うことが違うのは分かります。
囲い込みの最初の段階は共有地に境界を引くことでした。現在の日本の農地にはすでに境界線が引かれています。しかし、田舎にいけばまだまだ共同体で管理している山や土地があります。作り手のいなくなった耕作地をタダで貸し借りすることが多くあります。その気になれば、そこで生きる糧を得ることができます。
私の感じる安心感は「そこにいれさえすれば何とか米や野菜を作って食べていける」という感覚です。逆に、都市内のみに基盤を持った場合、自分の労働力を切り売りしてそれで食料を買うことになります。それでいいですし、今のところそれでうまくいっています。
一度天変地異が起こるとその現代の常識が通用しなくなるときが来ます。78年前にもそれが起こりました。幸いなことに、私は飢えを経験したことがありません。しかし、祖父母、特に戦争に行った祖父からは繰り返しその辛さを聞かされました。私のほんの二世代前の話です。
「世界は発展し続けているのだからその中で稼げる人間になればよい」という気持ちを持つ反面、「農業の最低限の知識を父母が現役のうちに学んでおくべきだ」ということも感じているのが今の私です。