いろいろ考えさせられる
3ヵ月前は中国の国内問題だと思っていた今回のコロナウィルス騒動、その主戦場はヨーロッパからアメリカへと移った。日本でも不気味な増え方をしている。多くの発展途上国からは詳しい情報が伝わってこない。
日々入ってくるニュースで経済のことが語られる。株価が下落したとか、GDPがマイナスになるとか、多くの会社が倒産するとか。それと共に、大気がきれいになったとか石油の消費量が減ったという知らせも入ってくる。
経済と環境、両方のニュースを聞いていると、もともと悲観主義者の僕は「人間はどうしようもない袋小路に入り込んでしまったのではないのか」という新たなモヤモヤの種を抱えてしまう。
経済成長と環境にとって優しいことは本来相反することであり、両方を同時に立てることは不可能ではないか。人間はそのことにうすうす気づいているものの、あえて深く考えないようにしながら日々良い暮らしを求めているような気がする。
人は何のために生きるのか
そもそも人間は何のために生きているのだろう。最も根源的な問いに対する回答を、僕はある映画から学んだ。
大学生の時、深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズを一通り見た。その中でDVDを買い、今でも繰り返し見るのが第2作「広島死闘編」。
他の作品と異なり、これは菅原文太演ずる広野昌三よりも北大路欣也の山中正治に焦点があてられている。その山中と対立関係にあるのが広島のテキ屋大友連合会の大友勝利(かつとし)。千葉真一が今までの俳優としてのイメージを打ち破って演じた、粗野で極悪なヤクザだ。
実の親である大友連合会会長、大友長次ですら勝利には手を焼く。ある日競輪場の利権争いで村岡組ともめた勝利に長次は渡世の仁義について説くが、イケイケの勝利は聞く耳を持たず、逆に親に意見をする。僕の中ではこの映画のクライマックスとなる台詞。
「オヤジさんよ。神農じゃろうと博奕打ちじゃろうとよう、ワシらうめえもん食うてよう、マブいスケ抱くために生まれて来てるんじゃないの。」
僕たちは何のために生きているのだろう。
⇒ 美味しいものを食べるため
⇒ いい女を抱くため
本能をむき出しに荒々しく生きる勝利はこういう風に主張する。下品なセリフにも関わらずハッとさせられる。「ワシら」という部分を「すべての動物は」と置き換えてみると、生物の本質を見事に抜き出しているのだ。
あらゆる動物に共通する行動、それは生き続けるために栄養を摂取することと次の世代を残していくこと。動物の営みを突き詰めて単純化するとそういうことになる。
スズメ、牛、カエル、魚、今頭の中に浮かぶ動物とその行動を想像してみる。飼いならされて食料の心配のないペットは別として、野生状態の動物は常に食べ物を探しまわっている。より栄養価の高い食料を求めて一日のほとんどを費やす。
そして、決まった時期になると生殖活動を行う。誰とでもいいわけではない。より強靭で確実に子孫を残しそうなペアを探す。
より良い栄養を取り、より良い個体との間に子孫を残そうとする、つまり「うめえもん食うて、マブいスケを抱く」ことが生命活動のゆるぎない中心となっている。
おそらくアフリカの森にいたころの人類もこれらの動物と変わらなかったであろう。しかし、そこから数十万年するうちに人類は他の動物と異なる特別な道を歩み始めた。
「栄養を取って子孫を残す」ことに他の動物並みにエネルギーをかけなくてもよくなった。特に先進国では、飢えることも無くなり、かつては致死的であった疾病の多くを克服している。
「生き続けるため」から「より豊かに生きる」ことに人間の関心が移った。
欲望というものは…
人間は時間を持て余し、そして比較することを知ってしまった。その上情報網の発達は、それに拍車をかける。情報の伝播する速度はこの数百年の間で、時速4キロ=(歩く速さ)から、秒速30万キロ=(光の速さ)へと変わった。こうなると、より豊かに生きるの「より」は難しい。
自分より豊かな生活を送っている人をいくらでも探すことができる。そんな中で、経済は人々の欲望を喚起し続けることで拡大を続ける。より多くの人に何かを欲しいと思わせ、より多くのお金を流通させ、より多くの物を作り出すことで、”よりよい経済状態”が生まれる。
経済の拡大を目指していない国家はあるのだろうか。おそらくないと思う。多数の人間がより豊かな生活に無関心な国は無いからだ。
どんなにエコな製品を作ったところで、経済の拡大は地球の資源を使い続けることに変わりがない。唯一可能性があるのは、地球に埋蔵されるエネルギーと比較して無限とも思える太陽光を利用することだと思う。
しかし、太陽光を効率よく利用する設備を整えるより、化石燃料の採掘が容易で安上がりである限りその利用は無くならないだろう。人の生きられる時間は、地球のそれと比較してあまりにも短い。数億年をかけて蓄積した資源が使い尽くされていく。産業革命からまだ300年も経っていないというのに。
つくづく人間って特殊で難しい存在だと思う。こんなことを書いている僕もよりおいしいものを食べたいと思うし、2週間に1度乗るか乗らないの車を所有し、必要以上のものに囲まれて生きている。
見ることのない数百年後の子孫のことを考えるよりも、生きている間により豊かな生活がしたいと考えてしまう。これも、食べることと子孫を残すことの壁が下がり、その他の欲望を追求することが許されるようになった結果であろう。
話は元に戻って…
そして今回のコロナ禍での経済の低迷と自然環境の向上。特に大気汚染のひどかった中国では、生産活動の低迷によって久しぶりの澄んだ空が見られているようだ。
原油の需要も減り、価格も下がっている。この3か月間で減少した原油分は、どれだけの有機物がどれだけの年月をかけて作り出したものだろう。
今回の危機も早かれ遅かれ人間は克服することだろう。そして、確実に経済規模を拡大する方向に動いていく。つかの間の澄んだ空気を味わった人々も、周りの人と同様に豊かになりたいと願うだろう。
広島死闘編の大友勝利のセリフは「うめえもん食うて、マブいスケを抱くために…」の後、次のように続く。
「それも銭が無けりゃ何も出来やせんので。ほうじゃけん銭に体張ろういうのが、どこが悪いの?」
現代社会はこの「銭に体を張った」状態だと思う。地球環境と人の一生。あまりにも時間のスケールが違い過ぎるものを天秤にかけ、いつか矛盾が噴き出してくることもわかっている。それでも人は銭に体を張り続けることをやめることができない。
この勝負、一個人の時間間隔で考えると間尺に合うかもしれない。しかし、時間を延ばして考えると、人間にとって勝ち目のない勝負だと思う。
「そんなどうしようもない袋小路の中に人類は入り込んでいる」根がネガティブな僕は束の間の澄んだ空も素直に喜ぶことができない。