経済と環境 よく考えたらトントンか

前回の投稿 銭に体を張る話

4月21日の投稿で「経済発展と環境保護は相反することで、人類はどうすることもできない袋小路に入り込んでしまった」ということを書いた。読み返してみて「案外そうでもないかも」という気がしてきた。

僕の頭の中には今「比較的短い時間の区切り」と「悠久の時間の流れ」という二つの言葉が浮かんでいる。着地点は見えないが、最初の方についてブレレインストーミングしていきたい。

前回触れた「仁義なき戦い広島死闘編」の大友勝利は「うめえもん食うてマブいスケを抱くために」は金が必要。だからそのために「銭に体を張る」と説いた。

僕は「うめえもん…」の部分にすべての生物に共通する行動様式を見て、「銭に体…」の部分に、他の動物と比べてより過度な方法でそれらを限りなく求めるあまり、地球環境に対して危ういバランスの上に立つ経済の在り方を見た。

確かにこのまま人間が「よりうめえもん、よりマブいスケ」を際限なく求め続けていけば、つまり経済活動を拡大し続ければ、地球環境は悪化し資源は掘りつくされるだろう。実際に、産業革命以来、人類はものすごい勢いで今までため込んだ化石燃料や鉱物・森林資源を利用し続けている。それに伴い大気・海洋・土壌は汚染されている。

歴史上にはいくつかの形態の社会や国家が出現したが、要は「よりうめえもん」への到達をどのように行っていくのか、その方法の違いだと思う。各々の裁量に任せて自由にやらすのか、大きな力で制御しなが欲望を実現していくのか。国家の在り方とはアナーキズムと共産主義の間に展開するグラデーションのようなものだと思う。

ほとんどすべての動物が「食べること」と「子孫を残すこと」に時間を使い一生を終える。人間はその二つを余裕を持ってこなすことができるようになった。その結果、余計なことに知恵と労力を回せるようになった。

”趣味”や”生きがい”や”充実感”を持つのは人間だけだろう。それら人間の脳内のみで起こる幻想にドライブさせて、人間は他の動物と比べると明らかに”余計な部分”に異常に力を入れた道をたどってきた。

これが、僕の考える人間の大雑把なとらえ方。

バッタの大群のようなもの

人間は有史以来その数を増やし続けてきた。特に20世紀からの100年間は異常な伸びを見せている。僕の親の世代では世界人口は35億と学校で学び、僕の時代は50億になり、今や70億。ちょうど2世代で倍になっている。

そんな中僕は「経済の発展と地球環境の悪化」について心配しているわけであるが、最初に触れた「比較的短い時間の区切り」で考えればそれほど心配しなくてよいかもと思った。

「比較的短い時間」といっても1000年単位くらいの時間である。地球の誕生から46億年と考えると取るに足らないような時間だ。

この時間を現在の人間に当てはめて考えてみると、70億の人間が資源をむさぼる姿は、大量発生したバッタが餌を求めて草原を大移動する姿に思えてくる。

高校の科学の時間に「ルシャトリエの法則」を習った。平衡移動の法則ともいう。圧力や温度の変化で平衡状態が乱されたとき、変化による影響がなるべく小さい方向に平衡は移動するという法則。

これはバッタや人間にも当てはまりそうな気がする。いや、明らかにバッタには当てはまる。

餌や天敵や気候の状態が重なって、バッタが大繁殖する。しかし、大繁殖したままのバッタの数が標準になり、その先数百年にわたり繁栄が維持されるようなことはない。物理的な草原の広さや餌の量が限定要因となり、バッタ数年かけてその生息数を環境に適した数へ戻していく。

人間もこの100年ぐらいを考えたら一人勝ちしたバッタのようだけど、1000年まで伸ばせばルシャトリエの法則が効いてくるのではないであろうか。そんなことを考える。

今回のコロナウィルス騒動のような出来事も、平衡状態を作り出す一つとして機能していると思う。定期的に世界のどこかで起こる戦争もその役割を果たしているのかもしれない。しかし、人口の増えない先進国の多くを見ていると、疫病や戦争以上に大きな要素があると思う。

人間以外の動物を考えると、条件さえ整えばその個体数は時間と共に増え続ける。しかしどこかでその条件が頭打ちになるから、生き物のほとんどは一定の個体数しか維持ができない。

栄養状態、住環境、衛生状態、つまり生物が繁殖するための条件を考えた時、最高の状態にあるのは僕たち日本人を含む先進国に住む人間である。生物的な視点から見ると、人口が増え続けてもおかしくない。

しかし、多くの先進国では人口は頭打ちである。それどころか日本や台湾や韓国の出生数を見ると、近い将来急激な人口減少が予測される。これはなぜなのだろう。

平衡へのパラメーター

どうして先進国で人口増加は止まってしまうのだろう。僕は豊かになった人間が自らの中に限定要因を作り出しているような気がする。それは「貧しい時代へ戻る恐怖」であり「自己実現・本当の自分」などに縛られた思考・行動様式であると思う。

生きていくだけなら、大抵の仕事についたら可能である。しかし一度いい思いをした人間は、それを手放すことができない。良く冷えたビールのおいしさを知った後で、生ぬるいビールへ戻ることはできない。たとえそれがビール本来の姿でエコであると分かっていても。

豊かさのレベルを保つことが至上命題となった時、多すぎる子孫はその阻害要因となる。少数精鋭の子供に教育を施し、稼ぐことができる個体を育成していく。

子どもの方も「自己実現・本当の自分」という幻想に縛られて、なかなか安易な生き方をさせてもらえない。適当に学校行って、適当な仕事について、適当に結婚してという、万事適当な生き方が許されにくい雰囲気の世の中。子供たちは小さなうちから「あなたは何がしたいのか」という問いを突き付けられながら成長する。

多くの先進国で見られる晩婚化はこれらの要素が深くかかわっていると僕は思う。豊かになった人間は、逆にその豊かさの中で自らの数を抑制する要因を作っている。

以上のようなことを考えていると、経済と環境のバランスも一時的には不安定になるものの、1000年ぐらいの視点で見るとバランスが取れてくるのではないかと思える。ただ、その時地球上にいる人間がどのような姿をしているのかは想像できない。

ひょっとしたら人間をいなくするという形で地球は平衡状態を保とうとするかもしれない。人間がいなくなれば、次の「人間的な」動物、つまり、生存と繁殖以外の余分なことを考えられる生命体の出現まで地球環境は”良い状態”で保たれるであろう。

しかし地球にとっての”良い悪い”は人間が判断していることであって、人間が存在し無くなればそんなものは消えてなくなる。

なんだかわけのわからない文章になってしまった。地球といういう器から見たら、人間の振舞いなんかどこかで調整されて平衡状態となる、そう感じたからこんな文章を書いてみた。その平衡状態を作るためにはやはり人間の存在は不必要のような気がする。そうなれば、蝋燭が燃え尽きる前のように、今の繁栄を思いきり享受する態度も一理あるのかもしれない。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。