雨の後で
1日中続いた雨も未明には降りやみ、今朝は雲の合間から日差しが見えています。
駅から職場に行く道、約800mぐらいの間に、雨に打たれて歩道に落ちた街路樹の葉を掃き集めている人を何人か見ました。お店の従業員が自分の店の前を掃除していますが、中には誰の場所でもない部分の落ち葉を掃除している方もいます。
たいていそういう方は、おじいちゃんかおばあちゃんです。平日の朝、自由に時間を使うことのできる人は限られてきますが、腰が曲がった老人がほうきや火ばさみを手に公共の場所を掃除する姿を見ると、感謝の気持ちが湧き上がってきます。
私たちはコンクリートやアスファルトで舗装され、何にも落ちていない道を当たり前のように乗り物や徒歩で通りますが、それは決して自然の状態ではありません。車で移動中に、誤って旧道に入ったりすると、その荒れぶりに驚かされることがあります。かつては交通量の多い国道だった道も、ルートが変わり、利用する人がほとんどいなくなると、恐ろしいぐらいにその姿を変化させます。路上のラインは色あせ、落ち葉が積もり、木の枝が落ち、舗装面の隙間から雑草が繁殖します。無機質で変化しないものだと思い込んでいる道も、まるで生き物が老いていくような姿を見せます。現代の道路の持つ無機質性は人の手による管理を担保としてその特質を維持できている、そんなことを感じます。
国全体に広がる想像できないぐらいの数の道のすべてをきれいにしている人がいる、そんなことを想像したことはありませんでしたが、考えてみれば事実で、そのおかげで私たちは普通に車やバイクを運転したり、自転車を走らせたり、徒歩で移動することができます。国道や県道をはじめとする多くの道は、市町村や国土交通省の専門の職員が仕事として管理していることでしょうが、私が今朝通ったような道や村落の小さな道は、心ある人によって保たれています。
トムソーヤがペンキを塗らされる話
街の歩道だけではなく、家の近くの小さな公園でも、時折清掃する老人を見ることがあります。「ごみを捨てないで」そう書かれた張り紙の真下に捨てられた空き缶や弁当ガラを拾い、草を取り、溝にたまった落ち葉を集める。横を通り過ぎる時何も言えませんが、心の中では「いつもありがとう」と大きな声で言いたい気分です。
このように歩道や公園の掃除をしている人々の姿を見て、ある一つの共通点に気が付きます。それは、そういった作業を不機嫌な表情でやっている人をあまり見ないということです。数人で作業している人はお話をしながら手を動かしていますが、1人でされている人も穏やかな表情をされていることが多いのです。私が駅のホームですれ違う通勤客とは明らかに異なる顔です。
モヤモヤフィルターのかかった私から見ると、これらの仕事はどうしても「やらされている苦行」に見えます。「今から1時間かけて公園の掃除をしなさい」そう命令されたら、この先の1時間が灰色の時間に思え、どうやったら手を抜きながら見栄えよく1時間過ごすことができるか、そんな発想になると思います。中学・高校の頃、大掃除をやらされた時、時間の経過が第一の関心だった、そんな心境です。
しかし、大人になり、雨上がりの今日、このように穏やかな表情をして歩道を清掃する人々を見ると、私が感じていいはずの大きな幸福感を感じられないのは、そういった発想にも原因の1つがあるのではないか、そんな風に感じました。
マークトゥエインの小説「トムソーヤの冒険」の中で、トムが塀にペンキを塗らされる話があります。ポリーおばさんに命じられて、いやいやペンキを塗るトムを友人たちはからかいますが、彼はペンキ塗りを「信頼できるトムに託された責任ある仕事」に置き換えます。時に真剣なまなざしで、時に楽しそうにペンキを塗るトムを見た友人たちは、先ほどまでの態度を一変させ、自分の持っている食べ物やおもちゃと引き換えにその仕事を願い出ます。
仕事に楽しいつらいはなく、それを行う人の心持によってそれが決まる。本当のことはそうなのかもしれなく、歩道や公園の清掃を穏やかな表情でできる人たちは、他のことを行っても同じような心持でいられるのかもしれません。
このことを私のモヤモヤの解消、分相応の幸福の実感へどう結び付けたらいいのでしょうか。私の心が、私の行うことに「楽しい、つらい」といった色を付ける。そういうことならモヤモヤを消し去り幸福を実感するのも心次第なのでしょうが、そのモヤモヤや幸福といった概念が心そのものなので、どうしたらよいのかよくわかりません。
今朝見た人々のように、私も誰かのためにどこかをきれいにしてみたら、少しは手掛かりがつかめるかもしれません。
モヤモヤ ⇒ 幸せ?
”知らない人のために、当たり前を維持する作業をするのがいいかも”