職員室で
2024年の出生者数が70万を下回りそうだと新聞に書いてあった。団塊ジュニアである私たちの世代の3分の1に近い数である。人口減少は本当に進んでいくのだと実感させられる。
子供の数は減っても大学の定員は変わらない。定員割れを起こしている大学は普通に見られるし、その数はすごい勢いで増えている。どこの大学も学生が欲しくてたまらない。だからできるだけ早く合格者を出そうとする。そのようなタイプの入学試験を行う。
そのようなわけで、高校によっては年が明けて共通テストが始まる前にほとんどの生徒が進路を決めることになる。私たちの時代は1月中旬に5教科7科目のセンター試験を受けることから受験が始まった。
この夏休みから年末にかけての入試を見てみると、二科目による筆記試験や一科目プラス小論文で合否を判定するものはまだマシ。中にはオープンキャンパスに参加し、高校時代の活動を報告するだけで合格が決まるものもある。
生徒達が職員室にやってくる。
「志望理由書になんて書けばよいのかわかりません」
昔ならため息をつきながら「ホントにそこに行きたいん?」と言っていたところであるが、今はそんな言葉にもすっかり慣れてしまった。何しろそれが普通であるから。
考えてみれば現代の子供達もある意味かわいそうだと思う。小さい時から「将来何がしたい」「どんな夢があるの」「自分らしい生き方は何」と自分の方から何者かになることを要求されているのだ。
自分は何者かにならなくてはならない。でもそんなに簡単に思うような何かにはなれない。そうしているうちに年齢だけは上がっていく。周りは大学に進む雰囲気がある。自分も進学しようか。
「私は将来〜になりたいと思っています。そんな中、貴学のオープンキャンパスに参加して・・・」
「はぁーっ、またこのパターンだ」私はため息をつく。メッセージはどうだっていい。「メタ」の部分に裏打ちされていないメッセージは何も言っていないに等しい。いや、むしろ「本当は何も考えてこなかった」というメッセージだけが伝わってくる。
「俺は将来店を継ぐから勉強しなくてええねん」
教師としては聞きたくない言葉ではあるが、そういう彼は生きた表情をしていた。彼は自分で何者かになろうと思っていなかった。彼のその言葉は紛れもなくメタメッセージに裏打ちされた言葉だった。
イデオロギー
「自分らしく生きることは素晴らしい」
この考えに意を唱えることは現在では難しい。しかしこのような”かつての寝言”が正義と認定されたのは日本が豊かになったこの6〜70年に過ぎないと思う。
ほとんどに人にとって「何者であるか」は周りの人が決めてくれていた。「〜らしさ」は自分の中から生ずるものではなく周りとの関係性の中で生まれるものであった。
経済的余裕のない家は義務教育が終わると働いた。自分らしい職業を求めて求職するわけではない。親や親戚の縁故、教師が進めた会社、そんなところで働いた。
そもそも農村人口が多い時代には、農家の長男は田畑を継ぐのが当たり前であった。職人や商人など親の仕事を継ぐ人も多かったであろう。
職業に関して言えば女子は年頃になれば結婚して家庭に入り、フルタイムの肩書きを持って働かないことが普通であった。
そこには「将来のキャリアプラン」も「自分らしく生きること」もない。現代の視点から見たら、とても窮屈で不自由な人生のような気がする。
ではそれでは昔の人が不幸せであったかというと、そういうことはできないと思う。彼ら彼女らは「自分らしく生きる」というイデオロギーを知らない人々である。幸せは相対的なモノであり、どんな状況の中にもその芽はあるのだ。
豊かで選択肢が増えるのはよいことだ。それに私は同意する。しかし現代を生きていると、時にサルトルの言った「我々は自由という刑に処せられている」という言葉を感じずにはいられない。
私もその一人
私は、志望理由の書き方を聞きにくる生徒のことを笑うことができない。「何者にかならなくてはならない、でもどうしたらよいのかわからない」そう思っているのは私も同じであるからだ。
多分、私はものすごく贅沢な立場にいるのだと思う。「何も考えなくてもいい。今までの惰性で過ごしていけばいいじゃないか」そんな心の声が聞こえることもある。
しんどい思いをして語学や勉強をしなくてもいい。義務感ではなく好きな時に好きな本を読むのだ。
仕事では与えられた役割を淡々とこなす。下の世代が多くなってきたから彼らに仕事をまかすのだ。
家庭では息子らが独り立ちするまでの学費を支援し、お互いの両親のことを気にかけながら暮らしていく。
妻とはたまに外食をしたり、年に1度は2〜3泊の旅行をする。
昔の基準で言えば100点満点の生き方だと思う。このまま定年まで今の仕事を続ければ十分にできる生き方である。
毎月決まった給料をもらって、年に2回ボーナスをもらう。自由になる時間は少なくても経済的に生活が安定する。子供の学費をとりわけ、ローンを返し、生活費を引いて、余ったお金で老後のために投資をする。なんの心配もない生活である。
しかし、この私も「自分らしく生きるイデオロギー」の中で成長してきた人間の一人である。心の中から「それで本当にいいのか」という呻き声が湧き上がってくる。
私が何も考えずに惰性で今の暮らしを続けた時、私は何を失うことになるのだろうか。そう考えた時、惰性で生きる裏側に私がやりたいことのほとんどが張り付いていることが見える。
年とともに気力と体力がなくなっていくことは誰も避けることができない。その道のどこかで惰性で生きることをやめて反逆してみるのか、それともそのまま死ぬまで生き続けるのか、決断が遅れれば遅れるほど私は後悔して死んでいきそうな気がする。
ただ、私はどうしても「自分らしさ」という言葉が好きになれない。そんな時代のイデオロギーに染まっておきながら「そっちではない」と思うのだ。私にとってしっくりくるのは「自分らしさ」より「自分なくし」の方。
「自分らしさ」から「自分なくし」へつながる道はあるのだろうか。