舟の話

山の舟

平成の市町村合併が進んだのは私が働き始めしばらくしてからだと思います。合併の形には二つのパターンがありました。一つは隣接する大きな街に飲みこまれれてその街の一部になる形、もう一つは合併の後にまったく新しい名前の街に生まれ変わる形です。

大学生の時からうどん目当てに頻繁に訪れていた香川県も合併により大きく自治体の数を減らしました。私が主に訪問していた地域は高松から西になりますが、そこにもかつては香川町や綾南町がありました。これらの自治体は今ではそれぞれ高松市と丸亀市の一部になっています。

一月前、私は妻と次男を連れてこの旧綾南町にある温泉施設へと行きました。讃岐うどんを食べ歩く間、お腹を減らすための時間です。

この「綾」という文字は私にとって特別な響きがあります。「綾南町」や「綾歌町」は私の讃岐うどん趣味の原点のような場所で、そこには「綾川」が流れています。この辺りは景色を含めて、私が香川県で一番いいなと思える場所です。

さて、今回はうどんの話ではありません。私は旧綾南町の温泉施設のサウナの中にいます。公共施設だけあって、信じられないような安い値段で利用できます。平日はデイセンターも兼ねているため、入浴客のほとんどは地元の人のようです。

外気浴はできませんが、サウナ室と水風呂と洗い場のイスを使ってセッションを繰り返していきます。最後のセットにしようと思い、サウナ室で温まっていると地元の常連らしき人が一人入室し、知り合いの室内のもう一人と会話を始めました。二人はともに70歳ぐらいでしょうか。

A:「今日は行ったんか?」

B:「ああ、123と134を買った」

 「チカちゃんとナナちゃんが出とるからなあ。応援せんと」

どうやらボートレースの話のようです。その後もこの二人は会話を続けるのですが、まるがめボートの常連で女子レーサーのファンであることが分かりました。「チカちゃん」と「ナナちゃん」は贔屓のレーサーのようです。

歳をとっても女子レーサーを「ちゃん付け」して応援する二人を「かわいらしいなあ」と思いながら見ていました。この入浴施設の名前は「湯舟道」といいます。出来過ぎのような話ですが、本当の話です。

何かを求めて

かく言う私も以前、まるがめボートに行ったことがあります。もちろんボートレースをするためです。レースの勝敗は忘れましたが、締め切り5分前の音楽が「金毘羅船舟」だったことが印象的で覚えています。

丸亀の南に位置する金毘羅神宮は海上交通の神様です。その金毘羅山から見下ろす丸亀の街にボートレースがあることは、選手たちにとって心強いのではと勝手に想像します。

さて、まるがめボートは一度しか経験のない私ですが、地元では年に何度か舟券を買うことがあります。尼崎ボートや姫路のボートピアに行くこともありますが、一番多いのは神戸新開地にあるボートピアです。

そもそも私がボートレースに興味を持ったのは、少し関係のあった人がレーサーになったからでした。その人を応援するつもりで最初は舟券を買い始めました。レースを見るうちにボートレースの面白さが少しわかってきました。

レース自体はものすごく単純です。1周600メートルのコースを反時計回りに3周するだけです。出場する舟は6艇で、ボディーやエンジンの規格も同じです。インコースの一枠が圧倒的に有利です。血筋を追い続けなくてはならない競馬と異なり、舟やモーターは一定の期間で新品に変わります。

単純で差がないからこそ、各選手の技量や調整や気象条件で差が出ます。また、競輪や競馬と異なり、動きながらタイミングを合わせるスタートには、ヘヴィーメタルでいう様式美のような形があります。それらのことが面白くて、私はスポーツ新聞を読み、舟券を買いました。

しかし、その熱はすぐに冷めてしまいました。いや、冷めたというのは間違いで、今でも時間があれば私は同じことをするかもしれません。

お金を稼ぐためではありません。私はギャンブルでお金を儲けるという発想がありません。賭け事はゼロサムゲーム以下、マイナスサムの世界です。私のような中途半端な人間が、そんな世界で勝つことなんか想像できません。

私が面白いと思ったのは、データから未来を予測することです。未来に起こる出来事を当てることは、ある意味私に全能感を感じさせてくれます。一瞬、支配者になったような気持ちにさせてくれます。

私は、レースの勝者を予測することと自分のやりたいことを天秤にかけ、スポーツ新聞を買うのをやめました。自分のやりたいこととは、語学、読書、サウナ、旅、バイクなど、つまりこのブログに頻繁に登場する事柄です。ただでさえ「時間」との付き合い方にに悩み続ける私にボートレースが入り込む余地はありませんでした。

それでは私が一切のボートレースをやめたかというと、実はそうでもありません。私は今でも年に数回は舟券を買います。しかし、それは未来を予測して全能感を味わうためではありません。

カウンターウェイト

全能感を味わうためのボートレースはやめました。それを行うためには新聞を読み動画を見つづける必要があるからです。やりたいことの多い私の人生からそのような時間はどう考えてもひねり出せません。

それでも私が年に数回ボートピアに行く理由は、人間を見るためです。

神戸には東の浅草と並び称された街があります。新開地です。明治時代に湊川が付け替えられ、その旧河道にそって街ができました。その全盛期には映画館や劇場が立ち並び大変な賑わいだったといいます。

戦後は神戸の中心が三宮や元町に移り新開地は寂れていきました。今はパチンコと大衆的な居酒屋が目立つ街です。そんな新開地にボートピアはあります。街を歩く人の比率は圧倒的に中年以上の男が多いです。その中には缶ビールやコップ酒を昼間から外で飲んでいる人も普通にいます。

私はボートピアに入場し適当に舟券を買います。一応出走表は見ますがあまり深く考えないで舟番を選びます。ギャンブルでお金を稼ぐつもりはないので、当たりやすい二連複を100円ずつ数枚買います。

舟券を買ったらスクリーンを見ながらも意識の半分以上はそこにいる人々に向けられます。どんな表情でどんな時にどんな言葉を発するのか。人間観察です。

そこには人間模様が交錯しています。今までたいして苦労もせずに人生を過ごしてきた私、恵まれた世界に住み続けてきた私が関りを持たずにきたタイプの人たちが多くいます。

私はスクリーンの前や、時には近くの居酒屋に入り(この地域の居酒屋は店内にレース用のモニターがある)そこにいる人たちの声を拾います。ギャンブルで豊かになる難しさがよくわかります。それでも、お酒も賭け事もやめられない何かがあることも伝わってきます。

私は昼間から安酒を飲み、舟券を買って、モニター越しに選手を罵倒する人たちの人生を想像します。そうしながら「たまたま今まで私の運がよかっただけ」そう思うことがあります。自分の力というより、私の周りのさまざまなことがうまくかみ合っていたから私はここでも冷静にいられるのであって、少し間違えば私も外れた舟券と酒を手に「この下手くそ、やめてまえ!」と叫んでいたかもしれません。

上から目線でものを言って申し訳ありません。私が舟券を買う理由の一つは自分の人生の輪郭を浮かび上がらせるためでもあります。それと同時に、真面目で頭の固い私に対してのカウンターウェイトの役割も果たしています。

時にここに集う人々の中からハッと考えさせる一言を聞くこともあります。

「ボートが一番、仕事が二番、さあ明日も仕事頑張るか!」

工場の制服のままやってきた五十路の男性が満面の笑みで発していました。私はこういう言葉を聞くとすぐに手帳に書き記します。来てよかったなあと思います。

舟券の周りに集う人々、それぞれの人にそれぞれの人生があります。私はできるだけニュートラルになって、それらの人生を感じたいと思うのです。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。