スーパー銭湯に入れない人々
コロナ禍のため、大好きなスーパー銭湯での入浴を自主規制し始めたのは、前回の緊急事態宣言が出た頃でした。現在、私の住む兵庫県は3度目の緊急事態宣言の真っ最中であり、感染者数も上がりっぱなしです。
スーパー銭湯を避けて4ヶ月近く昔ながらの銭湯に通っていますが、ここでは今まで私が見えなかった様々な世界を見ることができます。
例えば、番台に座るおじさん・おばさんは概してコミュニケーション能力が高く、常連客の中には彼らとの会話を楽しみに来ている人もいます。傍から耳にする、飾らない一言が胸に沁みたりします。スーパー銭湯の受付ではまずないことです。
客同士の距離の近さも特徴の一つです。地域に密着した施設のため、更衣室や浴室内でよく知り合い同士の挨拶が聞こえてきます。その中で代表的なものとして2つの挨拶があることに気が付きました。それらは「今日は早いな」「今日は遅いな」です。「早い」か「遅い」で、「ちょうどいい」が無いんです。面白いですね。
また、ここ街の銭湯は広く万人に開かれた”公衆浴場”でもあるため、スーパー銭湯には出入りできない人々も入浴することができます。それはつまり、体に墨の入った人々です。
今まで多くの西洋人と仕事で関わってきましたが、私が驚いたことの一つに、彼らの中で少なくない人数が入れ墨をしていたことです。さすがに、他人から見える位置にしている人はあまりいませんが、高学歴であるにも関わらず、ちらっと見せてくれる墨にはインパクトがあります。
聞けば、西洋人にとってタトゥーを入れることは、それほどハードルの高いことではなく、それが理由で特定の施設が利用できないということはないそうです。
ここ日本ではどうしても、入れ墨=ヤクザというイメージが付きまといます。そして、たいていのスーパー銭湯やサウナ専用施設では、入れ墨のある利用者の入場が禁止されています。
街の銭湯には入れ墨の有無による差別はありません。したがって、全身に彫り物をまとった現役バリバリのその筋の人と思われる方もよく目にします。中には芸術作品ともいえる、繊細で鮮やかな彫り物もあり、ここ銭湯はそれらを身近で目にすることのできる唯一の場所でもあります。
立派な入れ墨も見ていて(凝視はできませんが)楽しいのですが、私が想像力をかき立たされるのは、もっと別の入れ墨です。
人生を考える
ある街のある銭湯に今年に入ってから2回行きましたが、2回とも出会ったおじいちゃんがいます。どうしてその人を覚えているのかというと、私に気さくに挨拶をしてくれたことと、背中に彫り物があったからです。
とても陽気で愛すべきおじいちゃんです。常連さんらしく、浴室内の知り合いとも話が弾んでいます。よそ者の私にも、着替えながら気軽に話しかけてくれました。
子育ても終わり、退職をして今は年金暮らし、毎日銭湯に来て知り合いと話をするのが楽しみ、そんな感じのするおじいちゃんでした。だから、私が彼の背中にある彫り物を目にしたとき、とても意外な感じがしました。入れ墨をするような人生を歩んできたとは思えないタイプの人でした。
そのおじいちゃんの彫り物は、未完成の作品でした。この方は、人生のある時点で体に墨を入れようと決意します。それは並大抵の決断ではないでしょう。ヤクザが体に墨を入れる理由の一つに「引き返すことのできない道をこれから歩んでいくことへの決意の表明」があると聞きました。
おじいちゃんがこの決断をしたときに、彼はどんな生活をしていて、どんな気持ちで、どんな未来を描いていたのでしょうか。また、未来など見えない状態での決断だったのでしょうか。とにかく彼は、背中に墨を入れる決断をしました。
どれほどの時間、どれほどの痛みに耐えれば入れ墨が入るのか想像もつきません。墨を体に入れることは時間と費用はもとより、健康も代償としてかかる行為だと読んだことがあります。肝臓に負担がかかり続けるからです。このおじいちゃんは、それらの犠牲を払って体に墨を入れ続けたことでしょう。
そしてある時期それをやめました。これも別の大きな決断です。人生観が変化したのか、生活自体が大きく変わるような出来事があったのか、私には知ることはできません。私に分かるのは、とにかく彼は2回の決断を行い、今は気のいいおじいちゃんになっているということです。
彼の笑顔の裏に、どれだけの悲しみや怒りがあったのでしょうか。平凡で穏やかな人生ではなかったことが彼の背中から伝わってきます。
喜怒哀楽
街の銭湯に通い始めて、より幅広い人間模様が見えるようになりました。ここではどんな人でも裸で、文字通りすべてをさらけ出しています。
街を変え、場所を変えながら毎週のようにいろいろな銭湯に通っていますが、そこではよく人生について考えさせられる経験をします。
二人の20代と思われる青年が、露天スペースの椅子で話し合っています。私がサウナから出て水風呂に入り露天のととのいイスに座る、そのサイクルを2回繰り返しても同じ場所から動こうとしません。もう30分は話し合っています。片方は少し悲しそうな顔をしています。
どうやら仕事のことのようです。一方が仕事の悩みを語り、もう一方が励ましています。二人は幼馴染のような雰囲気があります。そして、二人の肩には現代風のタトゥーが入っていました。
彼らにとって街の銭湯は、安心して肌が見せられる数少ない場所の一つなのかもしれません。
別の銭湯では、背中一面に勇ましい絵が彫られた老人に出会いました。しかし、背中に彫られた人物とは裏腹にそのおじいさんの足取りは非常に重いものでした。肌には張りがなく、明らかに体が弱っています。
その老人がどのような人生を歩んできて、どのような経緯で背中に墨を入れたのか、私はうかがい知ることはできません。しかし、その人生がもう終盤に入っているという雰囲気は十分に伝わってきます。
この方も一般的ではない人生を歩んで来たことでしょう。浴槽の中で何度か目が合いました。一瞬の出来事ですが、その瞳に喜怒哀楽の全ての色が含まれている気がしました。
誰もが順風満帆の人生を送っているわけではありません。むしろ体に墨を入れる人は、そうではない人に比べて、より多くの悔しさや悲しさ、そして寂しさを味わってきた人が多いと思います。街の銭湯はどんな人生を歩んできた人であろうと、全てを受け入れてくれる温かい場所です。
私は、多種多様な人が分け隔てなく集い、その人生模様が垣間見られ、生きることや人の持つ業について考えさせてくれる、そんな街の銭湯が大好きになりました。