机を片付ける
この10ヶ月、寝室にある私の机の上は本で覆われていた。試験用のテキストを始めとして、日本史や地理の本、資料集、手書きの白地図、それらが机の上や脇を占拠していたのだ。
「部屋を綺麗にしてほしい」という妻の圧力は当然あった。しかし、私は「試験が終わるまでは」と言い続け、机のまわりを散らかしてきた。
1つのことを調べると、それが次から次へと繋がってくるのだ。例えば、足利義満についての問題を解くとき、彼と室町時代の文化についての関係を知りたくなる。日本史の資料集を取り出して、関連する寺院や美術作品を調べる。地図を取り出して、それらの位置を確認する。高校の教科書にはどのように記述されているのか、引っ張り出して確認する。
一事が万事そんな感じで、机のまわりはどんどん本や資料でいっぱいになる。
勉強が終わり本棚に戻せばよいのだが、また翌日も取り出すことを考えると面倒くさい。妻の顔色をうかがいながら、そのまま放置する。
大学で地理を勉強し、その面白さは分かっていたが、それが歴史と結びつくとき、その醍醐味は数倍になる。ある出来事を、人文地理と自然地理、そして日本史という3つの視点で考える、旅の好きな私にとって通訳案内士の勉強は、これから訪問する場所の魅力を高める作業でもあった。
英語やイタリア語と並列しながらの学習なので、思ったように時間をとることはできなかったが、私は「~しなければならない」ではなく、ワクワクしながら勉強を行った。
先月末に1次試験が終わり、私は妻との約束通り机のまわりを片付けた。十数冊の書籍や地図帳をまとめて、別の部屋の大きめの本棚に直す。寝室の小さな本棚は、ほぼ語学関係の書籍となった。
久しぶりにスッキリとした寝室に、妻は満足そうな顔をしている。
寂しい気持ち
私は今複雑な気持ちだ。
一次試験の結果は11月までわからない。
もちろん合格したい。そしてそのつもりで、2次の口述試験用のテキストを買って勉強を始めている。12月の口述試験に合格すれば、私は「全国通訳案内士」という国家資格が手に入る。
そんなに稼げない職業であると、よく耳にする。実際に資格を手にしても、それを生かして働く人はそれほど多くない、そんな話もある。
しかし、日本各地さまざまな場所を訪れて、その魅力を英語を使って外国人に伝えることができる、それでお金までもらえる、そのことは私にとってとても魅力的に感じるのだ。
「お金に不自由しない立場なら何がしたい?」
「日本中旅したい」
これは数ある私の「バケツリスト」の筆頭に来る項目である。
しかし、今この私にある不完全燃焼感は何なのだろう。合格したいと思う反面、不合格であってあと1年間日本史や地理を勉強する理由が欲しい、そんな気持ちも同時に存在している。
「合格してても日本史や地理の勉強をすればよいではないか」という考えはもっともであるが、私にはウェイティングリストが待っている。
- イタリア語にもっと時間をかけたい
- 台湾語の学習を再開したい
- 語学関係のブログと動画作成に着手したい
特に最後のブログと動画は、これからの私の人生で大切になってくる予感がする。
今の仕事を辞めて全国通訳案内士になるとする。
(私のブログを読み続けてくださっている方から「明石焼き屋はどうすんねん!」という指摘が入ると思いますが、考えてます。ただ通訳案内士との同時に着地する方法が難しいのです。)
通訳案内士は不安定な職業で、今の仕事のような収入は期待できない。そこで、大切になるのは本業以外からの資産型の収入。
通訳案内士は「サイドFIRE」と相性が良いと思うが、何しろそのことに気づいてあまり日が経っておらず、投資を行ってはいるものの十分なリターンは期待できない。
したがって、投資に加えてブログや動画と言ったストック型の資産を持つことは有効であると考えた。そうなると、案内士の次はYouTubeだ。時間はいくらあっても足りない。
「宝くじに当たったら」
私は仕事を辞めて、日本中旅をして回り、空いた時間には語学の勉強をする。週末には明石焼きの店を開け、お客さんに美味しい玉子焼きとビールのコンビネーションを味わってもらう。毎週サウナに入り、月に1度はツーリングに行く。季節が変われば鉄道の旅に出かけ、年に1度はイタリアか台湾を訪問する。自分で作った野菜を馴染みの立ち飲みに持っていき、常連客におすそ分けする…
リストは続いて行くが、私は「宝くじに当たったら」という考え方をすることはやめた。運に頼らなくても、自分のコントロールできる範囲で自分の人生をより良きものにしていく、今はそう思う。
そのためには、通訳案内士の一次試験に合格したら次は口頭試験の準備、それが終わればブログの整備と動画制作に着手、それが優先されることになる。
二つの狭間で
通訳案内士の勉強をしながら、時々ノートをとった。そこには、勉強中に私が訪問したいと強く思った場所が書かれている。その一例を示す。
- 静岡県静岡市 東海道広重美術館
- 山口県下関市 赤間神宮
- 神奈川県鎌倉市 建長寺 円覚寺 寿福寺 浄智寺 浄妙寺
- 岩手県平泉町 達谷窟毘沙門堂
- 東京都 東京国立博物館
リストを見ながら私は驚いている。通訳案内士の勉強を始めた10か月前、その時の私の頭に浮かびもしなかった場所に、今、私は行きたいと強く願っている。
特に、芸術作品を鑑賞したいと思っている自分に驚きを感じる。今まで、神社仏閣には興味があったが、絵画や彫刻はほとんど関心を持たなかった。
それが、今、上に書いた広重美術館に行きたいのは彼の書いた版画を鑑賞したいためであるし、東京国立博物館は長谷川等伯や菱川師宣の作品鑑賞を欲してのことである。
学ぶことは、自分を変えて、以前には思いもよらなかった場所へ連れて行ってくれる。私の前には、1年前と全く異なる欲望を持った自分が存在する。そのことがたまらなく面白い。
ノートに記したリストを、これからもどんどん伸ばしていきたい。そのためには日本史や地理の勉強を続けていきたい。しかしながら、合格してしまえば、私には次のやるべきことがある。試験に落ちていれば、胸を張って再び勉強する理由ができる。
私の頭の中に、このような倒錯した考えが浮かんでは消えている。試験に合格したくて受験したのだ。受かれば素直に喜べばよいのだが、そのとき得られるものと失うものとを天秤にかけて、結果が出る前からああだこうだと悩んでいる。
ブログも動画も日本史も地理も各種語学も、全てを同時にできればよいのだがと思うが、それをやろうとしてモヤモヤを溜めこんできたのが今までの私。
こう考えると、本当に人生は短い。人ひとりが一生の間にできることなどしれている。しかも、気力、体力共に充実した状態で行うとなると、更に厳しくなる。そして、今は間違いなくその状態にある。
少しの時間も無駄にしたくないが、そのことを意識しすぎると、また元の私、つまり「~しなくてはならない」でモヤモヤする私に戻る。
Live as if you were to die tomorrow. (明日、死ぬつもりで今日を生きなさい)
Dolce far niente. (何もしないことの甘美)
この二つの狭間で、私は今日も一日を過ごしていく。