見えない世界

生駒山の麓

ここ数日、家事をしながら涙ぐむ妻の姿を度々目にした。私が意地悪をしたわけではない。運命のいたずらを彼女は感じていたのだ。

大阪の中心部から東へ進み生駒山へぶつかる麓に石切という街がある。そこには関西の人から「石切さん」と呼ばれ敬われている石切劒箭(つるぎや)神社があり、関西一円から多くの参拝客を集めている。

この神社は「でんぼの神様」と呼ばれている。「でんぼ」とは大阪の言葉ではれもののことである。はれものにもいろいろあるが、最も厄介なはれものとは腫瘍であろう。平均寿命が延びて、現在では二人に一人の割合で一生の内どこかで癌にかかる時代になった。

しかし、癌は成長するまでに長い年月がかかる病気だという。だから二人に一人とはいっても老人になってから患うケースが多い。しかし、時には私たちのような働き盛りの年代に襲い掛かることもある。

先日、私たち二人は電車に乗って石切さんを目指した。妻の友人に祈りをささげるためである。いつもなら二人で会話が弾む電車での道中もお互いに口数が少ない。

昼前に近鉄奈良線の石切駅に到着し参道を神社に向かって歩く。大阪平野から少し標高を上げ生駒トンネルの入り口にある駅だ。眼下に大阪のビル群が一望できる。この視界の中に500万人以上の人が暮らしている。その誰もが誰かから生を受けて、今この瞬間、息をしている。

神社に近づくにつれて参道が賑やかになる。占いの店が多い。こんなに密集した参道は初めてだ。店舗の5件に1件は占い屋ではないかと思えるほどだ。ここにはそれだけ自分の運命を知りたい人が集まるということか。

密度が高い場所

神社の正面に到着する。今まで訪問した神社と比較して明らかに何かが違い、ハッとする。数秒するとそれが一定の方向に周る人の渦であることに気がついた。皆無言のまま真剣なまなざしで、三之鳥居から本殿の間を時計回りの楕円を描きながら歩いている。その楕円の二つの端には「百度石」と書かれた石柱が立てられている。

「ここはそういう場所なんだ」と気持ちが引き締まる。

妻は受付で代理の祈祷を受ける手続きをしている。「しばらく時間がかかるからぶらぶらしていて」とラインが来る。私は境内を見て回った。

石の玉垣が数多くある。風化して寄贈者の名前は見にくいが伍拾や壱百などの金額は分かる。明らかに戦前のものだ。病気平癒を祈って納めたものであろうか。

本殿の裏側にカラフルな一角があった。近づいてみるとそこに千羽鶴の奉納所だった。千羽鶴にカードが付けられている。「癌が治りますように」の文字が見える。

一人の女性が本殿の脇の大木に手を触れている。目を閉じて、必死に何かを願っている。その手前にあるの馬の像でも、何人かの人々が足を撫でている。

ここは祈りの密度が高い場所である。私たちも含め多くの人は、ここへ祈るべき何かを抱えてやってくる。もちろん、普通の神社のように観光で来る人もいる。

ギャル風の女性三人組がおしゃべりをしながら境内を横切っていく。話題はバレンタインにチョコを渡す人数。楽しそうだ。幸せとは、そんな話をしながら石切さんに来られることなのだと思う。

境内の庭園に灰色と黒のトラ猫がいた。日の光を浴びて気持ちよさそうだ。あくびをしながら私の方を見てすぐに目を閉じた。猫は自分のしたいことしかしない。多分、将来のことも考えない。猫にあるのは「今」だけだ。あのような心持ちになれればどんなに楽だろうと時折思う。

つながり

代理の祈祷を受けた妻が出てきた。百度石の周りを歩くという。もちろん私も付き合う。二つに折られた50本のこより、つまり見た目は100本を手にして歩き始める。

一周ごとにこよりを1本ずつ下へ折り込んでいく。二つの百度石の間、直径20メートルほどの楕円を描きながらひたすら無言でぐるぐると歩き続ける。本殿に一番近づく時、心の中で祈りを捧げる。「妻の友人の腫瘍が消えますように」。

無言で歩くだけであるがさまざまな感情が心の中に湧き上がる。「前の人はもう少し早く歩いてくれないか」「折り返す時百度石に触れるべきなのか」「本殿に手を合わせる人はもう少し百度石から離れてくれないか」「子供を抱っこしながら歩いている人は大変そうだ」「昼ごはんに何を食べようか」。祈りに集中すべきなのに、それがなかなかできない。心の中に我が出てしまう。

きちんと心を無にしながら祈るべきだと思いながらも、そのような心の動きがあること、つまり私が目に見えない心というものを持っていることの不思議さを感じる。心はある。無ではない。

それはつまり目に見えない世界が存在しているということ。そして私の心が私の行動を変えるということは、目に見えないものが目に見えることに影響しているということ。

祈りがどういう効果をもたらすのかを、私は言葉にすることができない。しかし、目に見えなものと目に見えるものとがつながっているのなら、私たちがここで行った祈りと妻の友人の物理的な側面とをつなぐ回路のようなものがあってもおかしくないと思う。

私たちがこうして感情を持った存在としてここにいること、それ自体が不思議でたまらない。どれだけ科学が発達してその理由を説明しようとしても、不思議さは一つも変わらない。

私たちは世界の成り立ちについてほとんど何もわかっていない。だから祈るものと祈られるものとの関係もないということはできない。どこかにそういう回路があると信じて、私は祈りを捧げた。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。