カセットテープ教材
親の心を子供は理解できない。少なくとも同じ立場に立つまでは。
私の親はどんな気持ちで子供にお金を使っていたのだろう。
私が中学生の頃、「進研ゼミ」をやっていた。私がねだって申し込んでもらったものだ。毎月、茶色のしっかりとした封筒に入った教材が送られてきた。中には「Challenge」という総合教材と数冊の付属品、もう一枚封筒が入っている。家で解いた問題の提出用だ。
私はパラパラとChallengeをめくり、面白そうな記事を読み、適当に問題を解いてそのまま放置。提出用封筒はほぼ使用されることなかった。
私の両親は何も言わない。当時の私に与える小遣い以上の会費を、毎月福武書店(今のベネッセ)に納入していたはずだ。散らかった私の机を見て、何を思っていたのだろうか。
高校に入りしばらく「進研ゼミ」を続けた。相変わらず封筒は赤ペン先生のもとへは届かない。
「私には変化が必要だ」と思った。今なら「ほったらかしの進研ゼミを普通にやったら、それで変化やん!」とツッコミを入れるが、当時の私はそれほど柔軟ではない。
ある日、家にやってきたカセット教材のセールスマンに、私は変化を求めることにした。
一流の講師による国・数・英の3教科の解説がカセットテープに収められていて、付属のテキストと共にそれを解いていくのだ。動画全盛の時代には信じられないような教材だが、それが当時の家で受けられるライブ授業であった。
私の親は何も言わずにお金を払ってくれた。高かった。当時の親の月給を超えた額であったと思う。
その結果どうなったのか。
人間の本質はすぐには変わることはない。私は志望校を目指して勉強はした。しかしその勉強方法は友人に影響されたやり方と、自分の直感に従ったものであった。そして、それらの中にあのカセット教材は入っていなかった。
18歳で一人暮らしを始め、実家から出て行った。私の両親は、あの大金をはたいて購入したカセット教材が、ほぼ新品状態なのを見て何を思ったのだろか。
私には、子供にために買った教材に関して、何一つ愚痴を言うことはなかった。自身が親になった今、私はそのすごさがよく分かる。
時代は繰り返す
二人の子供たちは、どちらも小学校3年生の時に進研ゼミを始めた。私の子供時代と異なり、周りの子供も塾や何らかの習い事をしているのが普通の状態であった。だから、親子のどちらかともなく自然に始めることになった。
毎月封筒が送られてくるのは、私のやっていた時とは変わらない。しかし、送付物の中に時々箱が混じる。その時は子供の表情が輝くときだ。箱の中には実験キットや液晶画面付きの電子教材が入っていた。「時代は変わったものだ」と思ったが、私の子供はやはり私と変わらない。
積み重なっていく教材、未提出の課題に私たち夫婦の表情は曇っていく。「余計な口出しをしてはダメだ」お互いにそう言い合いながらも、時には小言が出てしまう。提出期限に間に合わせるため、何度も郵便局の時間外窓口まで車を走らせた。
「どうしてこんなに気をもむのだろう」と思うが、赤ペン先生に課題をほとんど提出しなかった私に比べたら、息子たちの方がはるかに立派だ。改めて、私の親は当時の私をどう見ていたのだろうと思う。
高校生の長男が去年の夏、予備校に行きたいと言ってきた。有名講師たちの授業を、好きな時に個人ブースで見られる予備校だ。
私はその費用を聞いて驚いた。「バイクが買えるやん!」心の中の声を表に出さず、私は平静を装った。しかし動揺していた。映像の授業を見るだけでこの値段!実際はスタッフによる細かな指導もついているのだろうが、塾や予備校に行ったことのない私にとっては、文字通り「目の玉が飛び出そうな」価格だった。
子どもが大きくなるにつれ、親が子に対してしてあげられることは限られてくる。教育を与えることはその中でも最大のものだと考える。だから、私は予備校に学費を納入した。心の中では「参考書とかたくさん買って自分で何とか勉強できへんの?」そう思いながら。
我ながら小さい人間である。30数年前、あのカセット教材の費用を払った時、私の親も私と同じことを思ったのだろうか。私には、子供に教育を与えるのは当然のことのようにお金を出してくれたように思えたのだが、本当は動揺していたのかもしれない。
固定電話
私の家族も全員が携帯電話を持つようになった。えらい時代が来たものだと思うが、そう考える時点で私は古いタイプの人間である。今では職場の知り合いでも、若い世代では固定電話が無い家が増えている。
我が家では固定電話を今のところ維持しているが、それを使うことはほぼなくなった。たまに、銀行やリサイクルショップからセールスの電話がかかってくる程度である。電話料金の明細を見て、基本料に対する通話料の比率の少なさに愕然とする。
そんな我が家の固定電話が、最近よく鳴り響く。電話に出るのは私か妻だ。大抵夜8時ごろかかってくる電話の相手は、長男の予備校スタッフである。
「~君ご在宅でしょうか」
丁寧な言葉遣いでそう聞かれるが、そういう時は大抵家にいない。というかこちらは、長男は予備校に行っているため家にいないと思っている。
「えッ、そちらに行ってませんか?」
この半年間で、そんなやりとりを何度も行った。
どうやらこの予備校では3日間連続で来校しないと家庭連絡をすることになっているらしい。予備校の先生も大変だ。
勉強がしたくて、こちらから申し込み生徒にしてもらった。そこへ通う通わないはこちらに責任があるはずだ。来ない生徒は放っておけばよい。
しかしそうはしてくれない。お金を払ってもらったからには、その対価として成績を上げる。予備校側も自分たちの行っていることをビジネスとして考えている。その商売上の責任感が私の家の固定電話を頻繁に鳴らすことになる。
私は複雑な気分になる。
学ぶことは商取引と同じように考えてはならない。そう考えることは教育の負けだと思う。人間だけが持ち続けている”sense of wonder”、私は誰、ここはどこ、今はいつ、私はどう生きるべきなのか。これらの感覚は貨幣の歴史よりはるかに長い歴史を持つ。
学ぶこととは、究極的に考えればそれらの問いへと近づく行為になる。そして、その行為に商取引はなじまない。
しかし、もう一方で、バイク一台買えるほどの大金を払った私が言う。
「もったいないやろ。予備校に行きたい言うから大枚はたいたのに、何してんねや!」
学びは自発的であるべきと思う私と、支払ったものに対する対価を求める私とがせめぎ合う。
「お金は捨てたと思って、見返りは求めずに息子を見守ろう」
妻は私にそう言う。
確かにそうだ。何かを求める気持ちで、人に何かを与えてはダメなのだ。まず、与えることが先にある。パスを送らなくてはならないのだ。そのことは長い人類の歴史が教えてくれている。
人類がインセストタブーの感覚を持った時から、それは私たちの中に刻み込まれたことである。家族の中にできた女は、他人に与えなくてはならない。そして女が欲しければ、それは他からもらってこなければならない。大事なものは自分以外の力によってもたらされる。そしてそのためには自分の大切なものを他人へ与えなければならない。
まずは与える。与えたものと同等のものが自分のもとへ還ってくるのかは分からない。しかし、人類が続いているということは、場所や世代を変えながら、自分の出したパスが回ってるということ。
私は息子に何も言わない。予備校に行った日も休んだ日も。
私はパスを渡した。あとは何が起こるのか見守るだけだ。時々損得勘定が口に出そうになるが、それもグッと我慢する。そして、自分の父母に思いを至らせる。
「あのカセット教材を買った時、何も言わなかった両親は今の私のような心情なのか。文化人類学的知識を持っていたのか、やせ我慢していたのか、初めから何も感じていなかったのか」
今度実家へ帰ったら聞いてみよう。