たとえ話をします
こんにちは、大和イタチです。
趣味の一つに語学学習があります。
結構年期は入っています。
実力の方は、期間に伴っていないかもしれませんが。
とにかく語学学習、趣味でやっているのだから好きな時に好きなだけやって楽しめばいいのでしょうが、そうはいかないという話です。
たとえ話を一つ。
目の前に美味しそうなリンゴの実がなっています。あなたはそのリンゴを食べたいのですが、背伸びしても手は実に届かないし、木に登ることもできない。周りを見回すと、レンガのブロックがいくつか落ちています。「レンガを積み上げてその上にのれば、リンゴに手は届くかもしれない」
そう思ったあなたは、レンガをリンゴの実の下に運んできます。上にのって手を挙げるともう少し高さが足りない。もう一つ積み重ねようとレンガを持ってリンゴの下へ行ってみると、なんと最初のレンガは地面に半分沈んでいるではありませんか。リンゴの実の下は超軟弱地盤だったのです。大急ぎで2つ目のレンガを置き、3つ目を手に戻ると1つ目のレンガは完全に埋もれ、2つ目のレンガも地面に沈みかけています。
ここであなたが自力でできることは2つです。
1つ目:今までの努力を捨ててリンゴを諦める。
2つ目:今まで以上に努力をし、沈む以上のペースでレンガを集めてくる。
このたとえ話、私が今、語学学習をイメージしながら作りました。
リンゴの実 = 語学の習得(納得できるレベルでの)
地面に沈みゆくレンガ = 学習した内容の忘却
納得できるレベルまで語学を行おうと思えば、たゆまぬ努力が必要になってきます。しかも人は覚えた端から忘れていくものです。
だから語学を続けていくと、上に示したような2つの選択肢が出現します。
すなわち、リンゴの実を諦めてしまうのか、または一気に取ってしまうのか。
諦めるか集中するか
この2者択一が示されたとき、多くの人はリンゴを諦めてしまうと思います。
というのが、このリンゴとレンガの例えがそう簡単なものではないのです。
リンゴ=語学の習得(納得できるレベルでの)という風に例えましたが、この例えは非常に主観的なものです。納得できるレベルというのはもちろん人によって異なります。日常会話が目的の人と、同時通訳者を目指している人では、要求されるレベルが語学以外の知識でも異なってきます。
さらにややこしいことに、語学の学習を続ければ続けるほど、自分の足りない部分が明らかになってくるものなのです。つまり、納得できるレベルからどんどん遠ざかっていくのです。
人類史上最高の賢者の一人であるソクラテスが「私は、自分が無知であるということ以外何も知らない」と無知の知を説いたように、語学でもその道を進めば進むほどその奥深さや自分の至らなさが見えてくるものだと思います。
学問以外でもそうですね。道を究めた人は決して自分は最高の場所に達したとは宣言しないものです。おそらく、登山をするように、高い場所へ登れば登るほど、見渡せる景色は広がり、その中で自分が行ったことのない場所の多さに気が付くのだと思います。
大げさに書きましたが、私も語学をずっと行っていますが、これでいいだろうという満たされた感覚は一度も味わったことがありません。常に何かが欠けているような感覚、そしてこの欠乏感は増えはすれども決して減っていかない、そのような気持ちです。
次に、地面に沈みゆくレンガ=学習した内容の忘却ですが、忘却を遅らせるためにはどんどんレンガを集めて重ねていけばいいですね。
レンガがリンゴの木の周りにたくさん落ちていたらこれも可能です。
しかし、そんな環境に恵まれている人はこの国ではなかなかいないと思います。
忘却を防いでくれるのは、繰り返し使用することです。
しかしこれがこの国ではなかなか難しい。特に、書く、話すといった表現する部分において。
英語を利用しなければ困ったことになったり、自分が成長するのが困難になるという場面をほとんどの人は経験しません。
自分の思っていることを表すのに十分な語彙が日本語にはあり、それを理解する一定以上のリテラシーをほとんどの人が持っている国です。英語が日常生活や知的な活動に入り込んでくる余地があまりない。
だから、意欲があれば「読む、聞く」という部分は継続してできますが、「書く、話す」という表現の部分は続けることが難しく、この部分でレンガは土の中に沈み続けていきます。
第3の選択肢
そんな困難な語学学習ですが、私の現在の状態を示すと、諦めもせず、集中的な努力もせず、第3の立場にいるという状態です。
つまり、リンゴの実を取りたい、レンガを積んでいる、レンガは沈んでいく、沈み終わる前にもう一個のせる、こんな感じです。
要するに現状維持のまま過ごしているのです。
今までやってきたことを捨てるとなると、もったいなくてとてもそんな勇気がない。
では、納得できるレベルまで突っ走るかというと、そんな時間と労力をかける気持ちは無い。
実は、私、英語以外にもあと2つの外国語を続けているのです。
結構泥沼です。
現状維持が精いっぱいです。
宝くじが当たったり、不労所得への道が開けて仕事を辞めることができ、1日のうち2時間×3言語で6時間ぐらい語学に費やすことが可能なら、まあまあ納得できるレベルに達することができるのかなと思っています。
南方熊楠は19か国語を理解したそうです。
しかも、語学が彼の研究の中心ではありません。
古今東西あらゆることに精通し、何が専門なのかわからないぐらいの博学者です。どういう頭の構造をしていたのでしょうか。
「彼の何分の一かの語学センスと、今より自由にできる時間があれば、もっと余裕をもって語学ができるのに」と無駄なことを考えて、またモヤモヤした気分になっています。
語学は楽しいです。しかし同時にやめることもできない沼のようなものでもあります。
もっと楽な気持ちで取り組めたら、と思いますが、私の性格上、今日も焦りながらレンガを3か所に重ねています。
いつの日かおいしいリンゴを3つ手にすることを夢見ながら。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”語学で欲張りすぎると、すっきりとした気分は遠いかも。”