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コロナ禍での楽しみ

コロナウィルスの脅威が収まりません。

去年の今頃は兵庫県にも緊急事態宣言が出されていました。しかし、宣言中の感染者の数がかわいく思えるほど、現在は毎日多くの感染者が出ています。

自由が制限される中で、みんな何とか自分の楽しみを見つけようと工夫しています。「楽しみとは一体何なのか」そういう課題を私たちに突き付けている一連の出来事であると思います。

私が週末になるとワクワクする理由の一つがサウナです。主にスーパー銭湯やサウナ専用施設を利用します。時には他府県へ出かけることもあります。男は何でも集めたがる性格が強いのでしょう。いつの日か47都道府県のサウナを制覇したいと思っています。

そんな私の楽しみも、1月のコロナウィルス第3波の到来以来封印しています。別にそれらの施設が規制の対象になっているわけではありませんが、人の出入りが多く、県外を含め広範囲から集まってくるので、私の良心が”自主規制”をかけているのです。

私は代替案を考えました。人が少なくて、広範囲から集まらない、しかもサウナが利用できる、そんな場所はどこなのか。出した結果は昼間の昔ながらの銭湯です。

かつては生活に欠かすことのできないインフラで街のあちこちにあった銭湯も、内風呂が主流となった現在ではその数を急激に減らしています。スーパー銭湯の普及はそれに拍車をかけました。

実用がメインの銭湯に対し、それに娯楽の要素が大きく加わっても値段それほど跳ね上がらないスーパー銭湯です。2時間かけて風呂に入り、さらに2時間マンガを読んでも千円でお釣りが来ます。どうしても街の銭湯は見劣りします。

私もサウナを好きになって以来、安価で長時間過ごせるこの素晴らしい施設のお世話になってきました。複数の施設で回数券を買い、週末ごとに通い続けました。街の銭湯のことは頭にありませんでした。

それが、コロナ禍で風向きが変わりました。私は、仕方なく街の銭湯に通いはじめました。

確かに密は避けられます。特に昼下がりの2時頃、どこの施設であっても浴室の中には数人しかいません。静かな洗い場の中で、ジェットバスの泡がはじける音が聞こえてきます。サウナ室も、大抵は一人か二人しかいません。

私は街の銭湯の行く末が心配になってきました。そして同時に、愛おしさが湧き上がってくるのを感じています。

兵庫県南部には、神戸市内や阪神間の下町を中心にまだ多くの銭湯が残っています。しかし、その数は30年前の数分の1で、残っている店舗も”これから”を保証されるような状況にはありません。

そんな銭湯に私は週末ごとに、場所を変えながら通うようになりました。スーパー銭湯のように”確かなサ室と水風呂”が約束されているわけではありません。

しかし、無くなりつつある銭湯文化にはまりつつあることを今私は感じています。以下は、今週末に体験した2件の銭湯について書きます。

週末の2連敗

土曜日、神戸市内のある銭湯を訪問しました。通勤用定期があるため、職場へ向かう途中で下車し、密を避けるため客の少ない時間帯を狙って入店します。

ここの銭湯はサウナが別料金になっているタイプです。番台で入浴料+サウナ料金を払い、サ室のカギとバスタオルを受け取って更衣室へ向かいます。

サウナ用バスタオルはロッカーの中に置いておき、まずはボディーソープを持って浴室内に入ります。昔ながらの銭湯は石鹸・シャンプーは各自持参がデフォルトです。

ケロリンの黄色い洗面器を持って洗い場に向かい、体と頭をきれいにします。カランが回すタイプではなく、昔ながらの赤と青の押したら水が出るタイプの洗い場です。

客数は少ないためか、レバーを押すとものすごい勢いで水が出てきます。それにして客数に対して洗い場の数が多すぎます。このことは無言のうちにかつての街の銭湯の繁栄を示してくれます。今では想像しがたいことですが、かつてはこの洗い場が一杯になるぐらい人が溢れていたことでしょう。

体を洗い、湯船でぬくもり、一旦浴室を出ます。体をきれいに拭き、サウナ用のバスタオルを腰に巻き、ペットボトルのお茶とサ室のカギを持って再入場です。

への字型をしたプラスチック製のカギを、ドアのスリットに差し込んで手前に引くと灼熱空間への入り口ですが、今日はなんだか様子がおかしいです。

サ室が放つあの体にガツンと来る熱の衝撃が無く、腰が砕けそうになります。温度計を見ると50度。外であれば耐えられないぐらいの暑さですが、ここでは鳥肌が立ちそうなくらいの低温です。

「何かがおかしい」と感じた私は、タオルを腰に巻いたまま番台へと向かいます。腰の低いおばちゃんが「原因が分かれば浴室にお知らせに行きます」と対応してくれました。

その時、サウナのカギを持っていたのは私だけのようです。しばらくすると、おばちゃんが来ました。「原因が分かったので、今から温めます。30分ぐらいかかります」。

30分待って再びサ室に入ると、なんか微妙な温かさです。温度計は80度。しばらくいると汗は出てきますが、水風呂が待ち遠しいようなかき方ではありません。

私は不完全燃焼のまま銭湯を後にしました。番台のおばちゃんは「申し訳ない」とサウナ料金を返してくれました。

明くる日曜日、今度は別の銭湯に挑戦します。コロナ禍でスパー銭湯に行けないのなら、これを機に新たな場所を開拓しようと、今日も通勤途上のある駅で下車し、目星をつけた場所へと向かいます。

銭湯情報のHPでサウナがあることは確認していたのですが、番台の料金表にはサウナの文字は見られません。仕方なく普通に入浴料を払い中へ入ると「サウナ料金」の張り紙が。

「サウナあるんですね」と番台のおじさんに言うと、少し困惑した表情で「誰も入らんから普段は切っているんや…。入るんだったら30分かかるで」。

サウナを求めて銭湯に来ている私に「NO」の選択肢はありません。追加料金を払い洗い場で時間をつぶします。この銭湯は「体を洗い温めることに特化」した原始的な銭湯でした。つまり最低限の設備しかありません。残念なことに水風呂もなく、サウナに入る前から気持ちが萎えます。

30分の後にサ室のドアを開けると、デジャブのように体が昨日と同じ反応をします。つまりヌルいんです。室温計は50度。これも昨日見た数字です。

番台のおじさんが言った通り、サ室は頻繁に使われているようではありません。劣化したドアの隙間から足元に冷たい風が吹き込み、なかなか部屋が温まりません。

10分いても汗が出てきません。私は少しでも温かい空気を求めて少し揺れる椅子の上に立ちます。「なぜ私は、今こんなことをしているのだろう」と思う瞬間です。

サ室から出ると常連客っぽいおじいさんのつぶやきが聞こえてきました。「サウナやっとんかいな」。

どう考えようか

この週末の2連敗、めったにあることではありません。サウナのある施設に2回行って、両方サウナを味わうことができなかったのです。

普通ならガッカリとしたまま月曜を迎えるモードに入るわけですが、私はなぜか心が軽くなりました。特に2日目、日曜日の銭湯の浴槽で私はある思考的挑戦を行っていました。

「これは銭湯チャレンジだ。どうやったら今のこの状況を楽しいものに読み替えることができるのか」

そう思いながら、周りのものに目を向け、聞き耳を立てます。「良い悪い」は一旦カッコの中に入れて、物事を別の角度から眺めてみるのです。

昨年の5月、私のモヤモヤがピークに達した時、所ジョージの言葉に出会いました。

「ガッカリも度を超すと面白い」

今回体験したガッカリなどは、全然大きなものではありませんが、そんなガッカリでも、それをそのまま受け取るのではなく、少し形を変えて吸収すれば見える景色も変わってきます。

  • この2日間でブログの記事のネタが1つできた。
  • サウナを評価するセンサーの目盛りが広がった。(下の方に)
  • 令和の時代に、中にいる人・設備を含めて全て昭和を味わうことができた。
  • 最低限の設備しかない浴槽空間で30分過ごせ、経験値が上った。
  • 孫と過ごす時間が長ければ疲労がたまることが分かった。(会話より)
  • 普通に温かいサウナと水風呂のありがたさが分かった。

考えはじめると、次々にこの経験から得られたことが浮かび上がってきます。そうなんです。考え方によっては、ガッカリからも学べるし、ガッカリを人生のスパイスにすることができるのです。

この考えが当たり前になれば、今度は喜びがあれば、それが小さなものであっても大きな幸せを感じられる土台ができてくると思います。

「ガッカリを読み替える力」

これが幸せを感じるための大切な能力の一つであると感じさせられた週末でした。多分、次の週末に「普通に温かいサウナ」を味わうことができれば、その喜びは今までと異なるものになるでしょう。再びガッカリを体験すれば、それは未知なる幸福感への経験値の向上となります。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。