6月下旬から7月
3年前まで6月は私にとって他の11ヶ月とそれほど変わらない1つの月であった。現在は、ある一部分で考えると、私にとって最も楽しみな月になっている。
ここでいうある一部分とは「お金」のことである。
日本の会計年度は4月に始まり3月に終わる。そのため多くの企業は3月末に年度の決算を行う。上場企業は決算を行った後3か月以内に株主総会を行わなければならない。したがって、日本企業の株主総会は6月に集中する。
5月下旬から総会の案内状がぽつぽつと届き始める。私のように購入最低ラインの株しか持っていない株主にも、律儀に総会の議案と議決権行使用のはがきが届く。総会が終われば配当金の案内が送付され、証券口座に入金される。
私は何もしていない。ただネットの証券会社のHPを開き、ログインして銘柄を選び、購入ボタンを押し、しばらく放置しておいただけである。そのまま権利確定日を迎えると、次の6月から7月にかけて配当金が入金されている。
何だか誰かが私の貯金箱にチャリーンと勝手にお金を入れていくようで「これでいいのか」という気持ちになることもある。私の中にはまだ、「お金とは労働の対価であり、労働とは自分の命の時間を切り売りすること」こういうイメージが根強く残っている。
額は少ないにしろ、何も苦労することなくお金を得ることに対し罪悪感を感じることもあるが、考えてみればこれは貯金であっても同じである。株式を購入することも、銀行にお金を預けることも、そのお金を元に経済を回して利益を生むことには変わりがない。そして、利子や配当金はその利益が原資となっている。
したがって、貯金の利息に対しては何も思わず、配当金に対して罪悪感を感じるのは論理的に考えるとおかしく、改めて自分の思い込みの強さ、頭の固さに気づかされる。
ともかく、今年も無事6月下旬を迎え、いくつかの日本企業の配当金が入金された。私は「バイ&鬼ホールド」するつもりで株を買っているので、私の方針が変わらないか、企業の業績が悪化しない限り、これから毎年楽しい6月を迎えられそうだ。
配当金以外にも、企業から送られてくる冊子を読むと新たな発見があって楽しいものだ。簿記を少しかじったことも、企業の貸借対照表や損益計算書を見てみる動機になる。
無知な私
私は3年前に証券口座を開設した。それまでは、金融に関しては何も知らないに等しかった。給料が入れば、妻が銀行へ行き私の取り分を引き出してくる。私はそれを自分の銀行口座に入れて、必要な分だけ現金やカードで使っていた。
給料天引きの積み立ては、貯蓄と投資が一緒になった商品に変わっていたし、ボーナスのかなりの額は終身保険に消えていた。どちらも、何も考えないまま、保険会社の言う通りに入ったものだ。私は自分がどこへ向かうために何が必要なのかも考えないまま、何となく必要そうに見えるものを買い続けていた。
貯蓄に関しては、私は漠然と貯金通帳にお金を貯めていけばよいという風に考えていた。いつ、どれだけ必要なのかも考えないまま、入金と出金を繰り返し、結果的に少しづつ増えればよいと考えていた。今から思えばあまりにも低い金融リテラシーであるが、私は親から金融教育を受けていないし、自分でも学んでこなかった。
確かに私の親の世代はそれでよかったであろう。母親から「自分の若いころは定期預金の利率が6%あった」という話を聞いたことがある。すごい時代があったものだ、
今、この利率で銀行にお金を預けることができるのなら、私は証券口座を開いていないし、子どもに金融教育をするつもりもない。つまり、私の親は私にお金について学ばせる必要のない時代を生きてきたわけだ。日本の経済が毎年10%以上伸びていた時代である。
今から7~8年前だったと思う。周りの誰かが「ピケティはすごい」と言っていたのを、今思い出した。
資本主義の残酷さ、持つ者と持たざる者の差がどうして広がるのかを「r>g」の式で表したフランスの経済学者トマ・ピケティのことであった。
悲しいことに当時の私のアンテナは、知り合いの放った言葉に反応しなかった。もしその時、知り合いの一言から何かを感じ取り、ピケティについて調べていたら、私はあと5年早く証券口座を開設で来ていたかもしれない。
そして、この5年間のアメリカの株価の上昇を考えると…、いや、過去できなかったことについてあれこれ悔やんでも仕方がない。過去が悔しいのなら、その意味付けを変えることができるのは今以降の行動でしかない。
資本主義の残酷さに対して無知であった私が「r>g」のrの側に少しでも足を踏み込もうと思ったのは、モヤモヤがひどくなりこのブログを書き始めてからである。そう考えると、モヤモヤも悪いことではなかったのかもしれない。
3年前にブログを書き始め、自分の人生とは何かを言葉に表し始めた。思いを文字にして、それを眺めることで新しい感情が湧き上がり、その感情が更に筆を進めていく。文章を書くうちに、今まで考えなかったことを考え始め、見えなかった景色が見え始める。そのようなことが積み重なり、私は出会うべき人に出会う。
「リベラルアール大学」の動画に出会ったのはブログを始めて半年たった頃であった。
自由とお金との関係について、私は知っているようで何も分かっていなかった。両学長の多くの動画をメモを取りながら学び、そこで触れられた書籍を買って読んだ。
私はすぐに訳の分からない貯蓄商品と終身保険を解約した。証券口座を開設し、iDecoとNISAを始め、解約金で少しずつ日米の高配当株を買うようになった。
そのようなわけで、私はこうして楽しい6月を迎えている。
成長したのか
ピケティの名前を知った時に投資を始めていたら違っていたであろうが、今の私の状況はサイドFIREからは程遠い。何しろ証券口座を持ってまだ3年に満たないのだ。
しかし、この間にもいろいろと学びながら、自分の投資スタイルを洗練させているつもりである。学んで行動すれば確かに現実が変化してくる。特に証券口座の中では、行動の結果が数字として表れるため変化を実感しやすい。
だがここで私は考える。果たして私の金融リテラシーは本当に向上しているであろうか。そして、それを向上させる必要は本当にあるのだろうか。
お金とは不思議なものである。お金の価値とは、生存のために直接的には価値がないものを価値があると集団で思いこむことが担保になっている。物質的にお金とは、紙であり磁気であり電子パルスである。「ないもの」を「ある」と思いこめる想像力が、この資本主義の世界を動かしている。
パソコンやスマホのディスプレイに表示される数字、それを効率よく増やすことを考えて、私は終身保険を解約し、証券口座を開設し、定期的に株式という幻想を購入する。
私に欠けているのは、その表示された数字の向かう先である。
私はなぜ6月になり日本株の配当金が入れば嬉しくなるのか。ディスプレイの数字が増えるから。では、増えた数字をどうやって減らすのか。子どもたちの学費を払う。家のローンを払う。衣食住に使う。
そのようなことは私が証券口座を開設する前から十分にできていたことだ。訳の分からない貯蓄商品を給料天引きで購入し、終身保険にボーナスの何分の1かを払い込んでも、私は生活ができていた。
勉強をして、r>gの「r」の側に立とうと決めた。そのほうが資産形成が早まるからだ。しかし、なぜそうする必要があるのだろうか。行先も知らないままディスプレイ上の数字を増やすのにどんな意味があるのだろうか。
たまに実家に帰って農業を手伝う。私の両親は、多種類の野菜を少しずつ作っている。配当金が入金される時期は、野菜作りにとっても楽しみな季節の始まりだ。父と母が作った夏野菜は命が震えるぐらいおいしい。圧倒的なリアリティーがある。
「難しいことを考えなくても、ここで米や野菜を作っている限り私は生きていける」そう思うことが最近よくある。
先日、曽野綾子氏の本を読んだ。長年アフリカの貧困地域でボランティアを行う彼女が定義する真の貧困とは「今晩食べるものがないこと」だという。現在でもそんな貧困が数億の単位で存在する。
私は毎日のように運動をする。おいしい食事とお酒を味わうために、わざわざお腹を減らすのだ。そんな私の行為は、貧困にあえぐ人の目にはどのように映るのであろうか。別に「r」の側に立たなくてもよい。株式を持たなくても充分に満たされているのではないか。
おそらく、これからも私は6月が好きな人間であり続けると思う。配当金が入金され、ディスプレイの数字が増えれば、その瞬間は幸福を感じることができる。
しかし、そのお金の行き先を考えないまま、闇雲にディスプレイの数字を増やそうとする男は「金の亡者」と呼ばれても仕方がない。
お金を通じての幸福とは何か。私の味蕾に残る夏野菜のリアリティーと曽野綾子氏の言葉をかみしめながら、私は真の金融リテラシーを持ちたいと願う。