親孝行ドライブ
妻の両親は共に80歳を超え、現在は2人で暮らしている。義理の父は免許を返納し、買い物はもっぱらバスに乗って近くのスーパーまで出かける。
二人ともスマホやパソコンを使って注文し、宅配してもらうようなリテラシーは持ち合わせていなく、二人で抱えることができる量が、1度の買い物の限界になる。そして、最近義理の母は歩くことが億劫になってきた。
以上のような状況の中、義理の息子である私の出番がやってくる。
ペットボトルのお茶など、重い荷物を持っていき、買い物に付き合い、そして、お茶を飲みながらしばらくお話をする。
片道約2時間半、私は月1度のペースで妻の両親が住む街へ一人車を走らせる。普段は電車かバイクの私が、車を運転する数少ない場面。このルーティーンを始めて2年になる。妻は家にいて子供の世話。ここの所、私は妻よりもはるかに多く、義理の父母に会っている。
月に一度の往復5時間の車内の過ごし方を考えてみる。モヤモヤの私が抱える心の闇が見えてくる。
語学の泥沼から離れられない
一時期に比べると大分数を減らしたものの、それでも家には3百枚以上のCDがある。主にヘヴィーメタルやハードロックだ。購入後数回しか聞いていないものもかなりある。
10代終わりから、30代前半にかけて夢中になった音楽。今でも聴くと、若き日の気持ちが蘇ってくる。往復5時間のドライブは、これらのCDを聴く絶好の機会。6~7枚は流すことができる時間だ。多くの人は好きな音楽を楽しみながら運転するだろう。
でも、これが私にはできない。聴きたい気持はある。でもそれ以上に、私を追い立ててくるものがある。
語学である。
英語、イタリア語、台湾語の3か国語を勉強している。英語は仕事で使うが、他の2つは殆ど使用する機会がない。
語学をやめてしまえばどれほど時間ができるか、気持ちがどんなに解放されるか、時々そんなことを思う。しかし、今まで積み重ねてきたものを捨ててしまう勇気がどうしても出てこない。
スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学での有名なスピーチ。ドロップアウト後も大学で受講していたカリグラフィーの授業が、予期せずその後のマックの美しいフォントにつながった。その時はわからないが、振り返ってみれば、ドットはつながっていたという話。
私にとってこれらの語学も、いつかつながるはずのドット、そんな予感がする。今はそれはわからない。時間と労力を消費しただけで、全くの無駄に終わる可能性も大きいだろう。いつ、どんな形でドットがつながっていくのか、はっきりと想像することができない。しかし、それらの語学を用いながら、モヤモヤではない人生を謳歌している漠然としたイメージはある。
そのイメージの縛りから離れなれない私は、車に乗るとすぐに語学CDをプレイヤーに挿入する。本当は気楽に音楽でも聴いていたい。どうして自分の心の声に従った行動ができないのだろう。
20年近く前の音声
車内のCDケースには、妻や子供たちの好きなアーティストに混じって、私の語学CDがポツポツと。前回行った時は、「ビジネス英語」2001年4月号と「イタリア語講座応用編」2002年5月号。
今から約20年前に購入したCD。どちらもNHK第2放送のラジオ講座のものだ。大学を出て、就職をし、まだ駆け出しだったあの頃にはすでに語学の沼に足をとられていた。
「仕事は忙しい、でも語学を続けなければならない」「今月は勉強できなかった。せもて音声教材だけでも買っておこう」断片的に買われたラジオ講座のCDは、当時の私の置かれていた状態を表している。
表面が傷だらけのCDだが、問題なく再生できる。スピーカーから杉田敏さんの声が聞こえてくる。1944年、東京神田の生まれ。録音当時は御年50代後半、当たり前だが、今と比べて明らかに声が若い。
大学を卒業する直前、「やさしいビジネス英語」に出会い、杉田さんが好きになった。派手さはなく、地味に、落ち着いて、淡々と講義が進んでいく。私のペースに合っていた。トピックが信じられないくらい面白く示唆に富んでいる。
あれから四半世紀、身を引かれていた時期もあったが、今でも週3回のビジネス英語で、ラジオからあの声を聞くことができる。内容も、毎月テキストが出るのが待ち遠しいほど刺激的だ。しかし、リスニングから理解したいので、グッと我慢して会話文は放送まで見ないようにしている。
運転しながら19年前の放送内容を聞く。「.com」という言葉に新鮮味があった時代。懐かしい。ネットビジネスの出現でドレスコードが変化した、そのような内容だ。
難易度で言えば、その当時は少し背伸びをしていた。今は、内容がストレスなくスッと頭に入ってくる。普段は実感しにくいが、こうしたことを体験すると、私の英語力は伸びているのだと思う。
聞きながら、ひたすらシャドーイングしていく。すれ違う車の人々は、私がテンポの速い曲を歌いながら運転していると思うだろう。ラップとかヒップホップのような。そんなことはない。スピーカーから流れてくる英語を、ひたすら自分の口で再生しているのだ。CDが1枚終わるころには、頬の筋肉が疲労し、口がうまく回らなくなる。なるほど、英語と日本語の発音は、使う部位が違う。
CDが1枚終わったら。少し休憩して、頬の筋肉を休ませる。そして、シャドーイング再開。
帰りは言語を変えて
2リットル6本入りの麦茶二箱をドラッグストアで買い、義理の父母の家へ訪問する。妻からあずかった食品や、途中私が買ったお土産を添えて渡す。ホームセンターやスーパーへ連れて行き、買い物を手伝う。その後家に戻り、お茶を飲みながら1時間ほど話をする。
毎度のことだが、すごく感謝をされる。私の好きな銘柄のお酒を、必ずお土産にくれる。妻と付き合い始めて、初めてこの父母に会ったのは、そういえば、先ほど聞いたビジネス英語のCDが発売されたころだ。
有難いことに、義理の父母ともこうしていい関係を続けることができている。実の父母とも関係は良好だ。多くの人が悩む部分で、私は楽をさせてもらっている。どうして、普段の生活でモヤモヤを感じてばかりなのか、わからなくて悔しくてまたモヤモヤしてくる。
バックミラーを見ると、義理の父母は家の外で私の方を見続けている。いつも視界から消えるまで見送ってくれる。
帰り道は言語を変える。イタリア語講座応用編。テキストと同様、CDは、基礎編と応用編のセットとなっていて、切り離して売られることはない。買った当時はイタリア語を始めて間もなく、基礎編が目的で購入した。応用編は何を言っているのか全く分からなかった。
今は応用編をメインで聞く。さすがにイタリア語のシャドーイングは難しい。キーフレーズのみをリピートする。当時NHKで大活躍をしたイタリア人、ダリオ・ポニッシの張りのある表現力豊かな声が心地よい。こんなイタリア語が話せれたらと、あこがれる存在である。
CDが3周し、家が近付いてきた。今日も、英語とイタリア語を2時間ずつ学習できた。
しかし、私の心に巣食うこの空虚な気持ち。どれだけ学習しても満たされない感覚は何なのだろう。常に何かが欠けている気がして、もっと頑張らないと、と追いまわされている。
これが語学の沼なのか。その沼にはまっているとしても、もう少しうまく付き合うことができないものなのだろうか。抱えなくてよいはずのモヤモヤを今日も抱える。
とりあえず、昨年立てた目標、2020年のうちに英検1級とイタリア語検定2級の取得、これを達成するまでは、晴れない心のままであってもこのまま学習を続けよう。取得後、同じ気持ちなら、それはそれでまた考える。
来月も再来月も、義理の両親のもとへ向かう。車内での過ごし方、変わらないと思う。沼にはまっているなら、それはそれで、気分良く過ごせる工夫をしてみよう。