野球を見ながら考えた

ほっともっとフィールド

兵庫県に住んでいるため、私の周りには圧倒的に阪神ファンが多い。常連である立ち飲みでも、野球シーズンになると阪神戦のTV中継を見ながらお酒を飲みたい人々が集まってくる。

当然全員阪神ファンなので、私も阪神が得点すると嬉しそうにするが、実は周りほど嬉しいわけではない。私は野球を見るのは好きであるが、特定のチームを応援しているわけではないのだ。

卓越した技術を持った選手たちが、ダイヤモンドの中で一生懸命プレイして、自分では再現できない光景を見せてくれる、それが好きで野球を見る。阪神が勝とうが負けようが、その試合の中で素晴らしいヒットやホームランが出て、目を見張るような守備が見られたなら、私は満足する。

そんな訳で、私は県内にあるプロ野球が見られる二つの球場の内、チケットがとりにくくて騒がしい甲子園よりも、ゆっくりと自分のペースで観戦ができる「ほっともっとフィールドスタジアム」に行くことが多い。

私は今でもこの球場を「グリーンスタジアム」と呼んでしまう。かつてはオリックスのホームグラウンドで、イチローもプレイしていたこの球場は、ネーミングライツ制度導入以来、何度も名前を変え、5年ほど前に今の名前に落ち着いた。

かつては数多くの試合が開催されていたこの球場であるが、オリックスのホームグラウンドが「京セラドーム」に移った後は年間15試合程度の開催となった。その数も、さらに減らされて今年は1桁代になった。

私はその数少ない試合の一つを見ようと今、この球場の三塁側内野席に次男と並んで座っている。午後6時の空、南の方から暗い雲が近づいてきているのが分かる。カバンの中の雨合羽を確認する。

この日はオリックス対日本ハム戦。それぞれのチームの選手のことはよく分からない。5年前は同じ対戦カードで大谷翔平を見た。今は、ほとんどの選手の顔と名前が一致しない。つまり私は、それぐらい適当に野球を見ている。いいプレイが見られれば誰でもよい。

雨の長丁場

まだ、西には太陽が見えるが、頭上の空からは今にも雨粒が落ちてきそうだ。今年の夏は異様に雨が多かった。そんな雨続きの夏の中で、ようやく晴れた一日が、また雨で終わろうとしている。

降られないうちにと、コンビニで買ったサンドイッチを頬張る。いつもと何かが決定的に異なる。この20数年で初めての経験。つまり、私はビールを飲まずにシラフで野球観戦を行っている。

コロナウイルスがどれほど人々の生活を変えたのか、こういった場面で思い知らされる。コロナによる規制は、私が楽しみにしていたのは「素晴らしいプレイ」ではなく「ビールを飲みながら見る素晴らしいプレイ」であったことにも気付かせてくれた。

雨は降ったりやんだりを繰り返す。止み間を狙って売店に行き、食料品を調達する。若者にしては珍しく、あっさりしたうす味が好きな次男が、化学調味料の塊のようなチキンスティックを食べる。家では絶対食べないものも、この球場に来ると食べたくなるらしい。

そういう私も、子供たちが小さなころから、この球場に来る度、一緒にこのチキンスティックを食べた。もちろんビールと共に。ビールの無い今は、ただ辛いだけで食が進まない。

雨の中、グランド整備を繰り返しながら、ゆっくりと試合は続いて行く。8時を超えると、売店も閉鎖された。野球を見るしかすることがない。ビールもない、食べ物もない、声を出しての応援もできない。目の前の試合に集中する。

みんなが見ているもの

シラフでじっと野球を見ていると不思議な気分になってくる。

グランドでプレイする9人の守備、バッター、ランナー、みんな同じものを見ている。いや、ランナーコーチ、審判、ベンチの人々、そして観客、直接プレイしない人々もそうだ。

このほっともっとフィールドにいて、目の前の試合を観戦する全員が目にしているもの、それは1つの白球である。私たちは、この白球の動きを常に追いかけて、その動きによって喜んだり、関心したり、落胆したり、怒ったりを繰り返している。

私は、子どもの頃、学校で休憩時間に行った野球を思い出した。ピンポン玉やソフトテニスのボールを手で打って遊ぶ野球だ。バットもない、グローブもない、ベースもない、最大限に省略された野球の最後に残ったものはボールであった。

つまり、野球を構成する最大公約数的な物、それがボールである。そしてそのボールを、すべての人は追いかける。ボールの動きを自分で制御しようとする、それが野球である。

その唯一絶対に思えるボールであるが、「その通りであるが、そうでもない」。このことにシラフな私は気が付いた。

雨の降る中、キャッチャーは頻繁に主審にボールを手渡す。投手が投げたボールがワンバウンドしてキャッチャーミットに入ると、そのボールは汚れていて使えない。新しいボールに交換される。

グラウンドのフェアゾーンにあるボールは常に1つである。そうでなければ野球は成立しない。そして、その唯一無二のボールをすべての人々は追い求める。

しかし、物理的な側面から見れば、その唯一絶対性はある瞬間に消滅する。審判が汚れたボールをボールボーイに渡した瞬間、打者の打ったボールが観客席のフェンスを越えた瞬間、競技に用いられるボールはその意味を失う。

この日、雨の中4時間続いた試合で、何十球のボールが使われたであろうか。物理的には何十球も存在したボールであるが、記号論で考えるならこの試合にボールは1球しか存在していない。

どれだけ数多くのボールが1つの試合に使われていようと、ボールボーイの手に渡ったボールを追いかるものは誰もいないし、観客席にボールを取りに行きプレイを続行しようとする選手もいない。

「ボールは無数にあるが、常に一つである。」

そうさせているのは、私たちが共有する人為的な取り決め以外に何もない。私たちは、言葉を持ち、意味を作り出し、それを共有し、行動に当てはめる。

目の前で展開していること、つまりこの野球の試合は、全てが擬制であるということができる。しかし私たちは、その擬制により喜怒哀楽の感情を味わう。そして、その感情は私にとって「本物のように」感じられる。

私とは、自我とは

主審により頻繁に交換されるボールを見ていて、もう一つのことが頭に浮かんだ。

それは「アンパンマン」である。

アンパンマンは、困っている人に対して、自らの顔をちぎって与える。文字通り彼の顔は「あんパン」であるから、お腹を満たすことができるのだ。

しかし、顔の一部を失ったアンパンマンは力が落ちて戦えなくなる。そこで、ジャムオジサンが新しいアンパンを焼き、それを古い顔と置き換えると、アンパンマンは復活する。

このアニメの主人公は、今までのヒーローが誰もやらなかったことを平然と行う。つまり、自分自身の絶対無二性を簡単に捨て去ってしまうのだ。

子供たちはそんなアンパンマンを何も考えずに楽しみながら見るが、大人の視点から考えると、夜も眠れなくなるぐらい深く、そして恐ろしい。

もちろん、これはアニメでありフィクションであるが、擬制が実際の感情に大きく作用するとこは先ほどの野球とボールの関係で考えた通りだ。

アンパンマンはどこにいるのだろう。空腹のキャラクターの口に入った一部分、ジャムオジサンが焼いた新しい顔、その新しい顔に弾き飛ばされた一部が欠けた古い顔、それらは全てアンパンマンである。

しかし、私の心は古い顔がや新しい顔によってはじかれるその瞬間、アンパンマンの自我の在りかを入れ替えてしまう。画面の枠から出ていく古い顔は、小麦とあんこででき物質であり「我」を有した存在ではない。少なくとも、物語を見ているその時間にはそう思える。

虚と実の転換が一瞬のうちに起こる。それは丁度、ボールボーイに汚れたボールを渡した主審が、腰のケースから新しいボールを投手に投げ返す、あの瞬間に似ている。

「こちらのボールが生きたボールです」

そんなことは言われなくても分かる。

「こちらが自我を持ったアンパンマンです」

言われなくても分かるが、スッキリとしない。フィクションの世界の出来事とわかっていても、目の前の世界に当てはめずにはいられない。

飛ばされた古い顔はどうなるのだろう。草むらに落ちて、小動物や虫によって食べられる。または、微生物によって分解される。いずれにしても、時とともに形を変化させていく。

そして、これは私たち人間の姿に他ならない。時間のスケールは異なるが、物理的な私たちの存在も、アンパンマンの顔と変わらない。生を受けてから今まで、少しづつではあるが常に変化を続けている。

そこで私は「自我」に思いが至る。

「生きたボールと死んだボール」「新旧のアンパンマンの自我の移動」それらは理解できるが、ゆっくり変化し続ける私たち人間にとって自我と言うものはどこに存在するのだろうか。

実は私たちが、作り物である野球やアンパンマンからリアルな感情を味わうように「私」や「自我」といったものも、言葉の運用による効果であり、実存しないものなのかもしれない。決まった形は無いが、あたかもリアルに感じられるようなもの、そんなものかもしれない。

言葉を失い、擬制の世界を捨て、獣のようになれば、自我の存在で悩むようなことはなくなるであろう。しかし、私はそんな世界に生きるより、とりあえず、作り事だと知りながらも、目の前の野球を楽しめる世界にいたい。願わくば次回はビールを飲みながら。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。