鉄路があるのがありがたい

分水嶺を超えて

次男と二人北海道にいますが、今回の旅の目的の一つが宗谷本線に乗車することでした。広大な北海道第2の都市旭川から最北の街である稚内を目指します。

地図で見るとそれほど離れているように見えませんが、距離にして約260キロあります。神戸から西へ向かうと広島県の三原を超える距離です。「在来線で日帰りするのはチョット」という長さですが私たちはそれをします。メインは宗谷本線に乗ること自体なのでできなくはありません。

始発列車に乗ろうとホテルを6時前に出ると、もうすでに辺りは十分明るくなっています。後で地図を見ると旭川の少し西を東経142度の罫線が通過しています。私の住む兵庫県は日本標準時の135度が通るため時間にして30分の差があり、北海道に来ていることを実感します。

予想外に2両もある普通列車は定刻に旭川を出発、高架でぐるりと市街を回り北を目指します。この感覚、姫路から播但線で北へ向かうのと似ています。

北海道の街の作りは西日本のそれと比較するとかなりゆったりとしています。北の都会である旭川も高架上から見ると、道路と建物のスペースが姫路に比べてかなり余裕があります。これは北海道が開発されたのが日本の歴史で見れば最近であることと、雪を捨てる場所を確保するためだと思いました。

列車は白一色の上川盆地を進んで行きます。連続した市街地が途切れ、時折集落が現れたと思ったら駅に停車します。どの駅の駅名標にも「サッポロビール」の文字が見えます。

盆地が途絶えると列車は勾配を登り始めます。三浦綾子の小説で有名な塩狩峠です。私は列車の最後尾から通過する鉄路を眺めます。雪の中、二筋の鉄のレールが右へ左へと去っていきます。単調な雪景色のため峠の厳しさはなかなか伝わってきませんが、私はこの峠で起こった事故を想像しました。

この区間の開通は明治末期です。ここに路線を建設することも、蒸気機関車で超えていくことも大変な事だったのでしょう。基本設計が100年前の宗谷本線の横に、平成後期に建設された高速道路が並走します。

列車は分水嶺を超えて名寄盆地へと向け下っていきます。まだ旭川から30キロしか走っていませんが石狩川から天塩川の集水域へと入ります。「ここから4時間も天塩川が続くのか」私は北海道のスケールを感じました。

ひたすらこんな景色が続きます

白一面の中で

士別・名寄と盆地の中の街を列車が進んで行きます。街と言っても随分ゆったりとして小さな街ですが、その間に畑しかない区間が続くのでこれらの街がとても大きなものに感じられます。

名寄の手前で立ち上がり、左右の窓をキョロキョロと眺めます。かつてこの駅には名寄本線・深名線という二つの路線が接続していました。ここはまさに十字路だったわけであり、私はその痕跡を必死になって探しているのです。

どちらの路線も廃止から4半世紀は過ぎています。深名線のものはわかりませんでしたが、私は名寄本線の路盤であったであろう跡地を見つけました。かつては北見山地を超えて、ここと紋別がつながっていたのです。もちろん今でも道路はつながっています。しかし道路と鉄道ではその意味が異なります。少なくとも私の中では道路のみでつながった街は宙に浮いた感じがします。そして、鉄道でつながっていない場所は「到達することができない場所」、心の表層にそんな感覚が存在するのです。

名寄で後ろ1両が切り離されます。客数に見合わず2両編成だったわけは、ここから旭川へと向かう回送用の車両のためでした。車内には私たち同様、この路線に乗ることが目的の人以外の人々はほとんど見られません。たまに高校生など「本当にこの路線を必要としている人」が乗ってくると安心します。

南北に広がる名寄盆地を北上します。この辺りは稲作北限地を超えているので、雪に覆われたその下には広大な畑地が広がっているはずです。西を見ると、なだらかな天塩山地がずっと寄り添っています。時折、蛇行した天塩川が姿を現します。

はるか西に天塩山地、そこから広大な平地が広がり、天塩川を挟んで私たちの線路までつながっています。右手にも畑その先に北見山地の山々。空の青と雪の白、単調な色彩の世界の中を列車は走り抜けますが不思議と飽きることはありません。次男もじっと窓の外を眺めながら何かを考えているようです。私は頻繁に立ち上がり、前後左右に視線が定まりません。まるで大人と子供が逆のようです。

列車が音威子府に到着しました。ここでは乗り継ぎのため1時間半の時間があります。私たちは近くの道の駅で遅めの朝食をとることにしました。

地名の響きと無常観

次男にとって、この街は昨日の歌志内と並んで今回の旅行で最も訪れて見たかった場所。私にとっても、長年来ることを待ち望んでいた場所です。

”おといねっぷ”、私がこの地名を知ったのは、毎日時刻表を読んでいた小学校3~4年の頃だったと記憶します。この日本離れした地名の響き、そしてその中に含まれる”音”という文字。さらに、ここから最果てに向かって二手に分かれる道。「一体どんな場所なんだろう」ストリートビューなど無い時代、私は想像力を膨らませました。

かつては人と貨物で溢れていた場所

わかっていたことですが、音威子府は小さな集落にある小さな駅でした。下車した客は私たち二人です。

改札を通ると左手にそば屋があります。宮脇俊三を始めとする数多くの旅行者に愛されたこの店は、前月に店主が他界されたことで長年の営業に幕を下ろしました。

「あと1年早ければ、いやどうせなら天北線があるうちに無理をしてでも…」後悔は”行ったこと”ではなく、いつも”行わなかったこと”に対してやってきます。私たちは、この常盤軒で食べることのできなかったそばの面影を求めて、近くの道の駅まで歩きます。

列車に乗っている時はお互いに無口ですが、外へ出ると会話が弾みます。天北線のこと、音威子府の昔の様子、この辺りの人の生業のこと、私もいい加減な知識しか持ち合わせていなく、不正確な会話ですが途切れることなく続きます。どうでもいいような話題で話をしていますが、二人がこの場所にいなければ生成されない会話、そう思うとありがたく感じます。

山菜そば

色の黒い野性味あふれるそばを食べ、私たちは列車の時刻まであてもなく雪深い街を歩きます。営業している気配のない商店や医院、閉鎖された学校、人気のない国鉄時代に建てられた住宅。前日に歌志内で感じたのと同じような無常感が襲ってきます。おそらく次男も同じことを感じているでしょう。

活気にあふれた街ではないということは、次男も私も十分わかっていました。それを求めてこの街を訪問したわけではありません。むしろ「かつては繫栄していた」という事実を頭に入れてこの寂しさを味わってみたかった、そんな倒錯した気分に背中を押されての訪問です。

私も次男もここでも「無常観」を感じたかったのでしょう。寂れゆく街から駅へと戻り、一番この駅に活気があった時代に触れられる場所へと入ります。駅に併設された「天北線資料館」です。

その中心に鎮座する音威子府駅のジオラマを見ていると、この街に溢れていた鉄路と車輪の音が聞こえ、石炭の匂いが鼻腔に入り込んでくるようです。

ここまで旭川から130キロ。そして最果ての地まで、さらに130キロの道のりが待っています。名寄を過ぎてからは街らしい街がありません。そしてそれはこれから先も同様です。唯一、市として人口4万人に満たない稚内がありますが、宗谷本線が作られたのが今の時代なら、まず到達しなかった場所です。

音威子府から70キロ並走する天塩川は、河口に都市を持つことなく寂しく日本海へと注ぎ込みます。そこから先は植生も変わり、高木が見られない荒涼とした台地の上を稚内へと向かって行きます。

人気のない車両にいると、ここに鉄道があり、こうして特急列車に揺られていることが夢のように感じられます。列車に乗ると再び次男との会話は無くなりました。彼はじっと窓の外を見つめています。私も黙ったまま外に目を向けます。

稚内に到着した次男がボソッと一言言いました。

「今日、宗谷本線に乗ったことは一生忘れへんわ」

私も同じ気持ちでした。

この時代にこの場所に鉄道が残っていること、その鉄道が輝いていた時代を持っていたこと、次男が私同様に鉄道に興味を持ったこと、そして二人でこの地に来ることができたこと、全てが尊くて有難いことのように感じられました。

「私の身の回りのことはすべてが繋がっている。時間的にも空間的にも」

そして、その繋がりに守られながら私の人生が存在している気持ちがします。そのことを宗谷本線の旅は教えてくれます。

この最果ての線路は日本中の街とつながってるのです。当然、兵庫にある私の街の最寄り駅とも。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。