長崎でサ活(前編)

10年ぶりの長崎

10年ぶりに長崎に行くことになりました。会いたい友達がいるからです。その友達がらみで、大学時代から数えて長崎には20回ほど行きました。友達の話は書き出すと長くなるので、今回は長崎のサ活を中心に書きます。

どうしてもっと早くサウナに目覚めなかったのだろう、マンガ「サ道」をモーニングで読み始め何度も思いました。どういうことか言うと、大きなサウナには大抵カプセルホテルが併設されています。いわゆる「カプセル&サウナ」というやつです。私は旅が好きで、結構いろいろな場所に行ってきました。仕事関係でも、たまに出張が入ります。今まで、ビジネスホテルを予約して滞在してきた街には、大抵カプセル&サウナがあります。飲んで帰って寝るだけのビジネスホテルに、何時間でも楽しめるカプセル&サウナ以外の料金を払ってきたかと思うと悔しいのです。

以上のような理由で、サウナに目覚めた今、長崎での滞在は最初からサウナと決めていました。というか、これからは一人で宿泊するときは、すべてカプセル&サウナにするつもりです。なんて素敵な施設が日本にはあるのでしょう。

「サウナイキタイ」で検索すると、長崎には「みなとサウナ港洋館」という施設が樺島町にあります。「かばしまちょう」懐かしい響きです。大学生の頃、半年に1度のペースでこの街に来ていました。場所的にも歓楽街である思案橋からも徒歩で帰ることができます。私は出発1月前、HPを通じて予約しました。カプセル+サウナ、朝食なしで3,600円でした。

長崎駅
10年ぶりの長崎駅

列車で長崎に来るとき、いつも感動します。感動するポイントは突然やってきます。諫早から海と山の間をぬうように走り肥前古賀、現川と通過。そこから長い長崎トンネルへ突入するのですが、このトンネルの数分間で田舎の景色から長崎の景色へと一瞬で変わります。トンネルを出た瞬間、山の中腹まで家が立ち並ぶ景色に「長崎だ!」そしてしばらくすると右手に見える稲佐山に、地元民ではないのですが「帰ってきたー」とジーンとなるのです。

頭端式のホームにも旅情があります。改札から構内を見ると、列車顔が見える、これだけでも興奮してしまいます。下車するときは逆で、ホームを列車の先頭に向かって歩いて行くと、列車の先頭、線路の終わり、出迎えの人が一枚の画像の中に入って見えます。たまりません。マニアックな感動の余韻に浸りながら、私は樺島町へと向かいました。

専門施設のならではの…

長崎の街を歩いていると独特の雰囲気を感じます。坂が多い街のため、ほとんど自転車が走っていないのです。だから店舗の前に自転車が溢れて通りにくいこともありませんし、歩道を歩く時のストレスも少ないです。

心地よい秋晴れの中、駅から上機嫌で歩いて約10分、懐かしの樺島町の街並みが見えてきました。何しろ10年ぶりです。見覚えのない店もたくさんあります。目的のサウナも私の記憶にはありませんでした。

みなとサウナ港洋館
みなとサウナ港洋館

友人と杯を交わす時刻まで約3時間、私はみなとサウナ港洋館へチェックインしました。料金を支払い、カギをもらって2階のカプセルホテルへ。これは男性専用施設で館内に女性は従業員しかいません。でも、この日は女性従業員多いです。女性でまわす男性施設、そんな感じです。

カウンター横の階段を上がり、カプセルルームへ上がり、館内着に着替えてサウナへ向かいます。ちなみにこの施設、フロントも含めてすべての場所へ館内着で行くことができます。途中、休憩スペースには無料のコーヒー・お茶マシーンが。その前の灰皿の横には昔懐かしい、大きな箱に入ったマッチがあります。久しぶりにこのマッチ見ました。サウナ更衣室に入ると氷入り無しを選ぶことのできる給水機。その前には各種アメニティーの棚。

さすがにサウナ専門施設だけあっていうことがありません。館内も清掃が行き届いており、今からのセッションに期待が持てます。

異性に裸を見られるということ

週末の夕方ですが、浴室には10人足らず。ゆったりと湯船につかり、体を洗います。洗い場で洗面器にお湯を溜めようとすると、蛇口がありません。ここは洗い場でもシャワーしか使えないようです。初めての経験でした。体と頭皮をきれいにして、いざサ室というところですが、浴室内で若い女性の従業員がアメニティーの補充をしていることに気づき、慌ててタオルで前を隠します。

男子浴室で男の従業員、もしくは結構なおばちゃんにしか会ってこなかった私にしては驚きでした。普段、無防備な姿で浴室内を歩く私ですが、若い女性を前にすると思わず構えてしまいました。

考えてみると、とても不思議なことです。妻以外の異性に裸を見られるなんてことは日常生活において一部の人を除くとありえません。しかし、浴室内や更衣室でおばちゃんの従業員に会っても、特に何も感じません。それどころか、トイレの清掃の時なんか、自分の排尿する姿を異性に見せながら、恥ずかしいとか、してはならないことをしている、と感じていません。これが、お風呂屋やトイレ以外の場所で、利用者と従業員という関係性を持たなかったらとんでもないことになるし、犯罪でしょう。また、逆に男性の従業員が女子更衣室や女子トイレで、というシチュエーションもあり得ません。

こう考えると、人間って脳みそに支配されている生き物だと思います。一定の場所と関係性の中でのみ成り立つ「恥ずかしさ」を考え出した人間は、その「恥ずかしさ」を原動力にして様々な世界を作り上げてきました。大脳新皮質が他の哺乳類並みなら、「恥ずかしさ」なんで概念は生まれなかったでしょう。もっと単純化された構造の中を、食いつなぎ、繁殖することのみを考えて、生き続けるだけの存在だったのかもしれません。人間のみが他の動物を圧倒する複雑な思考と社会を築くことができたのは、「恥ずかしさ」と「死ぬこと」を発見したからだと勝手に考えています。よくわかりませんが、アダムとイヴのリンゴは人と人以外の境界線を象徴しているのではないでしょうか。恥ずかしいは、同時に欲望を掻き立てる原動力であり、人々の想像力を豊かにし、それは単純なことを複雑化します。一番わかりやすい例が動物と人間の生殖活動の違いです。動物に対しては「生殖活動」の一言でカテゴライズできそうなことが、人間のそれは無数のジャンルがあり、各ジャンルがものすごく広い裾野を形成しています。生殖のための行為そのものだけでなく、それらを扱った歌や美術や文学を考えると、おおよそ人間の文化的な活動はすべてといっていいほどここに結びついているのではないかと思うほどです。

「秘すれば華なり」
長崎のサウナまで来て、私の脳裏に世阿弥の言葉が浮かんできました。

(後編に続く)

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。