心地よい季節
5月に入り朝の日差しと風が心地よい。6時ごろ目を覚まし、コップ1杯の水で喉を潤しながらベランダから外を眺める。なだらかな山の稜線から少しずつ太陽が顔を出している。稜線から一部顔を見せていたその姿が、どんどん大きくなり、やがて独立した円として線から離れていく。アナログ時計の分針と同じで、動きは見えないが確実に動いている。
ベランダに出ても寒暖に心を奪われない季節なので、目の前の太陽と空に意識を集中させることができる。こういう気候状態はバイクに乗るにしても一番いい。
世の中うまくできているもので、ネガティブな要素とポジティブなそれの総量は丁度釣り合いがとれていると感じる。あれだけ寒さを堪えた冬の記憶と共に、数か月後に待つ灼熱地獄を想像できるから、この季節のバイクの心地よさを享受することができる。車を運転する時には表れない感覚。
休みの日の朝、素敵な気分で日の出を見ることができる気候の日、ふとバイクに乗ってどこかに行きたくなる。僕が住んでいる場所からだと北か西へ向かうことが多い。南は海で淡路島へ渡るには高い料金がかかり、東には大阪までひたすら街が続いていて面白くない。
バイクに乗るとどうしても田舎に行きたくなる。できるだけ信号や交差点で停止したくないからだ。何のためにバイクに乗っているのだろう。よくわからないが、GWの天気のいい一日僕は愛車にまたがって出かけた。
兵庫県
ライダースジャケットの下には薄手の長袖シャツ一枚。それでも寒さを感じない。ツーリングには最高の天候。グローブも冬用のゴアテックから、ワークマンで買った革製へと変える。
太陽を右手に見ながら北へ向かって走っていく。兵庫県は人口の重心が極端に南へ偏っている。瀬戸内海沿いには姫路から神戸を通って尼崎まで大きな町が連なっている。鉄道に乗って街歩きをするにはよいかもしれないが、一般道をバイクで走るにはつまらない。
その点北へ進路を向けると、それほど大きな町は無い。加古川、市川、揖保川という1級河川がそれぞれ平地を形作り、上流に向かうにしたがって幅を狭めていく。そしてそれらの水系を跨ぐ東西の峠も交通量が少なく、運転していて楽しい。
兵庫県は本州で唯一、両サイドに海を持つ県。私の住む瀬戸内側から日本海側へと抜ける最も低い分水嶺は、標高約100m。神戸港にあるポートタワーの高さより低い。日本海側はさらに人口密度が低くなるのでバイクにとっては都合がよい。普段見慣れない日本海を見に行くこともたまにある。
播磨・但馬・丹波・摂津・淡路という旧五か国(厳密には美作と備前の一部も入る)が合わさった兵庫県は地域によってさまざまな顔を見せてくれる。面白い県に住んでいると思う。バイクに乗っていても楽しい。
いろいろ頭に浮かんでくる…
緊急事態宣言の中、なるべく外に出ないようにしている。そんな中のバイク。県外に出るわけにはいかないし、観光地で立ち止まるわけにもいかない。純粋にバイクに乗って、そして帰ってくる。バイクの味がよくわかる。
信号のほとんどない県道を制限速度辺りでゆっくりと走る。両側遠くには山が、周りには田畑が広がっている。そんな中の一本道を走る。田んぼは耕されているもののまだ水は張られていない。今頃は苗床に植えた苗が芽を出している頃だろう。田植えまであと2週間というところ。
田植えが終わると田んぼの姿は少しづつ、確実に変わっていく。その変化をバイクに乗りながら見るのも楽しい。
谷の奥に進むにしたがって、雑草に覆われた田畑が目につくようになる。耕作放棄地だ。農業の斜陽化と後継者不足によって、日本中でこのような景色が増えている。
耕作放棄地を見ていると心が痛い。しかし、自然なのは草木に覆われた姿。人間が手を入れなければ土地の表面は雑草や多様な木々に覆われる。田畑はいわば人工的で生物多様性に乏しい自然だ。
自然の姿に無条件に心が癒されるというわけではないのであろう。現に僕はこうして、人工的に作られた田畑が自然に帰る姿に心を痛めている。人の心は複雑で難しい。幸福を感じるのもそうだ。
様々なことを脳裏に浮かべながらバイクを走らす。目に入る景色が僕の想像力を刺激する。若者の姿がほとんど見えない。朽ちかけている民家。学校の跡地。かつて商店であった痕跡を残す建物。今は無き商品の看板。田んぼで働く腰の曲がった老人。
高度経済成長の前、つまり60~70年ぐらい前までは、人々の生活は今よりずっと狭い空間の中で完結していたんだと思う。田畑や山で働き、農閑期にどこかに働きに出て、僅かな現金収入を得て、近くの商店で買い物をして、地域総出の祭りを楽しむ、そんな暮らしだったことが想像できる。
僕は、こうして田舎をバイクで走るたびに、今の集落の様子と昔のそれとを重ね合わせて考える。そして寂しさを感じる。この寂寥感、決して悪い感情というわけではない。むしろ、不思議なことに、感じた後少し元気が出てくる、そういった種類の感情だ。
物事は絶えず流転して同じ状態のままとどまることはない。古今東西様々な場所で昔から賢人たちが言い続けてきたこと。
この田畑や村々もそれなりに栄えていた時期があり、それはひょっとして今から再びそうなるのかもしれない。同様に都会がいつまでも繁栄するとは限らない。
丹後半島の宮津は北前船の時代「縞の財布が空になる」歌われるほど賑やかであったし、ローマの外港として栄華を極めたオスティアはテヴェレ川の土砂に埋もれてしまった。そういった例は数限りなく存在する。
「物事は絶えず変化する」この当たり前のことであるが普段の生活で意識しなくて済むことをツーリングでは感じさせてくれる。「気持ちがモヤモヤでも幸福を実感できなくてもそれは一つの側面、それは変化するもの」思考をそういう流れに載せてくれるから、この種の寂寥感はありがたいのかなと思った。
何もしなかった
結局この日はどこへ行くわけもなく(どこかへは行ったが)、何をするわけでもなく(何かは考えたが)ツーリングを終えた。
半日の間、トイレとコンビニ以外バイクを降りることはなかった。播磨地方の田舎道を気の向くままひたすら走った。
大抵は走ること以外に目的を持ってバイクに乗る。観光地に行きたいとか、美味しいものを食べたいとか。今日の僕は何もなかった。本当にバイクにまたがって走らせるだけ。
なんだか不思議な気持ちになってくる。自分の中に何人もの人が現れて、それぞれ別々なことを考えている感じがする。
一人目は運転のことを考えて、前方を意識して手足を動かしている。
二人目は目の前の景色に対して、先ほど書いたように様々な思いを巡らせている。
たまに三人目の存在を感じることがある。この人格は何も考えていない。バイクの上に乗っかってエンジンの振動を感じながらぼーっとしている。
コロナ禍の中、目的の無いツーリングだったので今回は特にバイクそのものに意識が集中していたのかもしれない。つくづく不思議な乗り物であると感じた。