陸路で北海道へ

久しぶりの夜汽車

今年の3月に続いて次男と北海道へ行くことになった。今度はどちらか片道、列車で行きたいという。

もう10年近く前、家族で北海道を旅行した。その時も片道は列車の旅であった。今は無き「トワイライトエキスプレス」で帰路、札幌から大阪まで20時間以上かけて旅をした。

今では味合うことのできない、機関車けん引列車での贅沢な旅であった。私にとっては思い出に残る旅であったが、残念なことに当時幼過ぎた次男は夢の列車についての記憶がほとんどない。

そのようなことで夜行列車を組み入れることにした。2021年現在、夜行列車と言えば実質「サンライズ出雲・瀬戸」しか残っていない。私は、出発の1ヵ月前、三ノ宮・東京間の「のびのびシート」を手に入れるため、みどりの窓口に並んだ。

次男と二人で深夜の三ノ宮駅のホームに立つ。お酒の入った客に混ざって数名、大きなカバンを持った客が列車を待っている。列車表示の電光板には「東京」の文字が見える。日本でほとんど消えかかっている、夜行列車の最後の旅情が感じられる。

かつてはこの路線にも多数の夜行列車が走っていた。私が物心ついた時にはすでに全盛期は過ぎていたが、それでも「なは」「あかつき」「彗星」といった列車で旅したことは忘れがたい思い出である。

車掌の検札を受けると、二人でフリースペースへと向かう。日付も変わりずいぶんと時間は遅いが、次男は夜行列車で弁当を食べてみたかったらいい。私もハイボールを飲みながら次男に付き合う。

大阪を出たところで席へと戻る。次の停車駅は静岡である。

  • 在来線で関西から東京まで直通列車がある。
  • 大阪から静岡まで停車しない。
  • 京都を通過する。

鉄道好きは、このような、興味のない人から見たらどうでもいいことに興奮してしまう。したがって、私も京都通過を味わってから眠りにつく。最終列車が終わり、暗くなった京都駅のホームをサンライズは速度を落としながら静かに通過する。なんでもないようなことに、ゾクゾクとする。

東京駅

東国

途中静岡の手前で一度目を覚ます。空がぼんやりと明るくなりかけている。私が列車の旅で一番興奮する瞬間である。夜行列車から見る夜明けは、その日がよい1日になるような気持にさせてくれる。

再び眠りについて、今度は横浜の手前で目を覚ます。通過するホームには仕事へ向かう人たちが並んでいる。私はこうして列車で北海道へ向かっている。心に浮かび上がる、この根拠のない優越感は何なのだろう。

品川から東京にかけては、来るたびに高層ビルが増えているような気がする。日本の首都である東京、この街の持つエネルギーを強く感じる区間である。

かつてここは東国、つまり政治と文化の中心であった畿内から見て東の端であった。源頼朝の時代、京都と鎌倉の二極体制をむかえ、徳川家康により政治の中心となる。明治以降は経済でも関西に肩を並べ、そして追い抜いた。

私は日本の中心となったかつての僻地を超えて、方向を東から北へと変えて進む。1400年前は大和朝廷の力が及んでいなかった地域へと入っていく。

はやぶさ入線

坂上田村麻呂が征夷大将軍となり胆沢城を築いたのが、平安時代の802年である。江戸時代、北海道は松前藩しかなく、本格的に開拓されたのは明治に入ってからである。

私は1000年以上かけて北進した現在の日本の領土を、これから「はやぶさ7号」に乗り、わずか4時間で通過しようとしている。

東京駅で駅弁を買い、今年初めての「朝飲み」をしながらビールを物色するが、駅構内のどの売店にも置いていない。そうだ、東京は今「緊急事態宣言下」であるということを思い知らされる。「はやぶさ」も乗車率は半分をかなり下回っている。

麦酒の代わりにペットボトルの麦茶を飲みながら、朝ご飯のお弁当を食べる。列車は県都境を超えて埼玉に入る。しかし、実質この世界で最も人口の集積したメガロポリスは一続きの大きな塊である。

そんな巨大な都市を、新幹線の高架橋からはよく眺めることができる。それにしても、関西の人間から見れば、山が見えない関東平野は巨大で異質な感じがする。

かつては海だった場所に、利根川の運ぶ土砂で沖積平野が形成され、その上に3000万人の人が住む街ができ上った。

大宮から「はやぶさ」は一気に速度を上げる。途切れることのなかった街の風景が、流れる緑色に変わる。

北へ向かう

私がこの区間を新幹線で走るのは3回目であった。しかし、過去2回は北から南への乗車であり、北上するのは初めてである。

田園地帯の中を列車は走っていく。利根川を渡り栃木県に入る。関東平野は相変わらず続き、県境を過ぎても景色は変わらない。海も山もトンネルもなく、水田の中を新幹線は突き抜けていく。よく利用する東海道・山陽新幹線とは違った感覚がする。

サンライズであまり眠れなかったのか、次男は音楽を聴きながらウトウトし始めた。私は、変化の少ない景色の中で、目に見える景色と頭の中の地図を一致させようとキョロキョロ、時に立ち上がりデッキの窓から外を凝視。他人から見れば、典型的な鉄オタの挙動不審な行動に違いない。

宇都宮を過ぎてしばらくすると、関東平野が尽きてくるのが分かる。那須高原を通過し、みちのくへと歩みを進める。郡山・福島と県を代表する街を容赦なく通過していく。この辺りは東海道新幹線の静岡・浜松と同じ扱いか。

鉄道の要であるこれら福島県の二つの街を、いつか訪問してみたいと子供のころから思っていた。3度目の東北新幹線であるが、今回もこれらの街は列車の中から見るだけである。

40代後半までに3度である。私は残りの人生であと何度ここを通ることができるのだろうか。そして、これらの街を歩くことはあるのだろうか。そんなことを考える。

大宮を出て約1時間で仙台に到着する。坂上田村麻呂はこの街にあった鎮守府を胆沢城まで北へ押し上げた。通訳案内士の勉強を始め、今まで興味の無かった古代の歴史が面白くなってきた。東北地方にも訪問したい場所が沢山ある。

奥州藤原氏が3代にわたって築いた平泉も、そんな場所の一つである。岩手県に入り、一ノ関通過後すぐに進行方向左側、デッキの窓に顔を押し付けて北北西の方向を見る。

地図を見ると、この平野の先に平泉の街があるはずである。今から九百年前、私の視線の先に、京都に次ぐ繁栄を誇った街があった。当時日本第2の街も、今では新幹線のルートから外れている。

三百数十年前に松尾芭蕉が、「夏草や 兵どもの 夢のあと」と詠んだ場所を、私たちの列車は一瞬で通り過ぎる。

正しい入り方  

盛岡を過ぎると停車駅はあと二つである。長大トンネルが増えて、山陽新幹線に乗っている気分であるが、こちらは海が全く見えない。北上川の作った谷を奥に進み、岩手トンネルで分水嶺を超える。

青森県に入り八戸の街越しに太平洋が見える。久しぶりに開けた場所に来た感じがするのもつかの間、すぐに左カーブで内陸に向かう。

八甲田山のすそ野を長いトンネルで超えると青森である。列車は青森の中心街を右手にしながら速度を落とし、新青森駅に停車する。

私は11年前の冬、出張でこの場所にやってきた。夜に通過したのであまりよく見えなかったが、雪の積もるだだっ広い場所で駅の建設工事が始まっていた。

「こんな寂しい場所に新幹線の駅ができるのか」そう思った。

私は今、まさにその場所にいる。この近くには縄文時代の三内丸山遺跡があるはずだ。大和朝廷より後の時代から考えると時代遅れにあったこの場所も、1万年単位で見ると今の日本列島の中で最も進んだ地域だったことが分かる。もっともそのころは日本という国は存在しなかったが。

新青森を発車すると次は終点新函館北斗。津軽山地と青森湾に挟まれた田園地帯を列車は北へと走る。スピードを落とし、在来線路線が合流し、青函トンネルに入る。

約20分でトンネルを通過。再び在来線が離れ、列車はスピードを上げる。まだ北海道に来た実感はないが、海を挟んで右手に函館山が見え、足元に単位面積の広い畑が見えると、ここが本州ではないことを感じる。

新青森から1時間足らずで終点・新函館北斗に到着。函館の名前は付くものの、駅は市街地から大きく離れた場所にあり、駅前の草原に馬が見当た。

私たちは、函館ライナーに乗り換えて市街地へと向かった。今日の昼ご飯はご当地バーガーである「ラッキーピエロ」で食べると決めている。

新函館北斗駅前

今回の北海道での楽しみの一つは、この往路であった。北海道へは今まで5回来たことがあったが、列車による往路は初めてであった。

「本州はどれだけ長いのだろう」「坂上田村麻呂の時代から明治時代まで、1000年かけて広がった日本を感じてみたい」そんな気持ちでワクワクしていた。

実際にこうして列車で来てみると、あっけないほど簡単に到着した感じがする。サンライズで寝て、新幹線に4時間乗って「速い速い」と思っているうちに到着した。

私の好きな旅行作家である宮脇俊三氏も、北海道旅行に関しては、せめてどちらかは飛行機で行くべきではない、理想的には青函連絡船で行くのがよい、といった内容の文章を書いていた。

青函連絡船が廃止され30年以上経過し、宮脇氏も鬼籍に入り20年近く経過した。しかし、今回こうして列車で北海道へやってきて、彼の言わんとしていたことが分かる気がする。

東京から九州へ移動するのと、北海道へ行くことは、距離は同じであっても、歴史がもつ層が異なるのだ。

沖縄を除き、関東平野から西側は、奈良時代以降同じような歴史の層を形成してきた。時代とともに、その地域はみちのくへと広がって行き、江戸時代には松前に達した。

しかし、そこから先の北海道が、例えば関西に住む人にとって同じ国であるという認識は近代以降のことである。

私の祖先を10代さかのぼると、江戸時代のどの藩にも関係する人がいそうであるが、当時の北海道に祖先が住んでいた気がしないのだ。正確なことは、もちろんわからないが、そういう感じの距離を感じる場所が北海道であり、そのことがたまらない魅力になっている。

祖母が生前、私にこんなことを言ったことがある。

「私の父親は若い頃北海道へ渡り、そこで家族を持っていた。そこから帰ってきて、こちらで再婚して私が生まれた。」

私は衝撃を受けた。写真でしか見たことのない私の曽祖父は、明治時代に北海道へ渡っていたのだ。しかも、そこには私と血のつながった子孫が今も暮らしているかもしれないのだ。

その当時、北海道はどれだけ遠かった場所であろうか。曽祖父は何を求めてそこへ行き、どんな気持ちで家族を残してこちらへ帰ってきたのだろうか。

祖母は字の書けない曽祖父に代わり、北海道へ手紙を書いたことがあると語っていた。北海道のどこの誰にあてて、どんな手紙を書いたのか、祖母に聞かなかったことが悔やまれてならない。私の父もその兄弟たちも、この話は祖母から聞いていない。祖母がいない今、曽祖父と北海道との関係は永遠に知ることができない。

今度北海道へ入る時は、もっと時間をかけて移動してみたい。歴史をもっと勉強し、この国の成り立ちと曽祖父に思いを馳せながら行ってみたい。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。