頭を空に

出来そうでできないこと

他の人から見れば簡単にできそうであっても、本人にとってはなかなかできないことがあります。私にとってそんなことの代表選手は「休日を何もせずに心から楽しむこと」です。

「そんな簡単なことができないのか」と自分でも思いますが、こうして文章を書き続けるうちに、これが一筋縄ではいかない問題であると気付き始めました。

「ただ単に何も忘れて楽しめばよいのでは」と普通の人は思うかもしれません。私もそう思います。しかし、いざ行動する段階になると強い抑制がかかるのです。その抑制とは、一人旅先で何か高価なものを食べようとしたとき「私だけいい思いをすることはできない」とためらったり、旅行中も語学や読書を行ったりすることです。

せっかくの休日の旅行です。ハレの日にはそれに合った過ごし方があるはずです。私は、そのような日にも普段のルールを当てはめようとして一人でモヤモヤしているのです。

振り返ってみると私のこの心の習性は十代のころから変わっていないような気がします。そのころと比べて自分でコントロールできる時間もお金もはるかに増えているのに、思考と行動パターンはそれほど変わりません。

先日、茂木健一郎さんのエッセイを読みました。「脳から見たヴァカンスの効用」というタイトルでした。

ヴァカンスに行き何もせずに、昼間からワインを飲みながらダラダラします。それを2~3日続けると体と心が変化し始めると書かれていました。

何もせず、ゆったりとする時間をすごすことで、はじめて立ち上がるプロセスがある。側頭葉の記憶のアーカイブの中から、大脳周縁系や前頭前野とのループを通じて、さまざまなものが引き出される。(中略)ヴァカンスは、何もやっていないように見えて、実は、脳の中で劇的な変化が起こっている。

茂木健一郎著 「脳の中の人生」 P178~179

何もしないことで、自分でも忘れていた記憶や感情が引き出され、それが新たな創造の元になっていくというのです。

私に今まで足りなかったのはこれでした。私は何か生み出そうとして、常に脳の中にインプットを続けている状態でした。だから旅行にも語学書や教養のための本を持って行きます。それどころか、休日、妻と買い物に出かけるときでさえ、カバンには単語帳や新書が入れられます。少しの時間でも空いたら、それらを読むためです。

私のこの習性は何十年もかけて身にしみついています。それで効果があればよいのですが、そのような状況で語学学習をして語学力が伸びている実感はありませんし、本だって楽しんで読めていません。

「どこかでこの心の癖を解き放っしまいたい」私は常にそう思ってきましたが、実行の直前になると不安がやってきます。

私は折衷案を採用することにしました。

私の折衷案

稀勢の里が横綱になったころでしたから、今から5年前です、私は今まで興味の無かった大相撲を、突然見始めました。以来、場所を重ねるたびに好きな力士も増え、今や大相撲中継を見る時間は私の最も幸せな時間の一つになりました。

「3つの”S”は私の幸せ」私はまわりの人によくそう言います。サウナ、相撲、酒の頭文字です。そして、この7月は初めて大相撲を見に行くことになりました。名古屋場所なので、当然宿泊はサウナ界の至宝「ウェルビー」です。

私にとって「リアルSSS」となる名古屋訪問です。これを楽しめなくて、私はこれからの人生でいったい何を楽しむことができるのでしょうか。

今までのパターンだと、行きと帰りの電車では読書か勉強をしていました。名古屋にいるときも、相撲を観戦しているときも「何か有意義なこと」を考えて、パンフレットや名鑑を読んだりしていてたと思います。本当にややこしい性格を私はしています。

今回の折衷案とはこういうことです。

私の心は、まだ完全に「何も考えない」「純粋に楽しいことだけして過ごす」という状態ではありません。放っておくとすぐに「意義・効率・意味」といったキーワードが現れて、それらが心を曇らせていきます。だから、私は「意義・効率・意味」をワクチンンのように薄めた行動をとることにしました。

私はこの旅行の間、一切の自分からのインプット活動をやめると決めました。語学も読書もなしです。イタリア語構文の練習を今年の正月から1日も欠かさずに行ってきましたが、それもこの2日間は無しです。その代わり、ダラダラとしたアウトプットを行うことにしました。

「何も入れずに目の前のことだけ楽しむ、そして心に浮かんだことをとりとめもなくメモする」これが私の折衷案です。

頭ノートを手に

以前の記事で紹介した「私デスノート」以外に、この4月から、私は「頭ノート」を書き始めました。「こうべノート」と読みます。

頭(こうべ)ノート

このノート、兵庫の人ならわかると思いますが「神戸ノート」と呼ばれています。地味なデザインのノートですが、教科別のラインナップが揃っており、小学生の間では圧倒的なシェアを誇ります。

このノートは末永幸歩さんの「13歳からのアート思考」という本を読んだ時に作りました。目の前のものを見たとき、他人の評価を頭に入れる前に自分の思いを表すことが大切だと思ったからです。

私はこのノートを、写真や絵を見たとき、私の心が感じたことを箇条書きするのに使っていました。今回名古屋に持って行くのは、語学書でも英字新聞でもありません。この「頭ノート」だけです。

名古屋へは鶴橋から近鉄特急に乗っていきます。株主優待乗車券があるので、名古屋へは時間に余裕がある時は近鉄電車を利用します。

近鉄は私の大好きな私鉄です。私鉄最長の路線距離を誇り、さまざまな系統の特急列車が走っています。「大阪から名古屋まで私鉄の特急で行くことができる」そう思うだけで鉄萌えしてしまいます。今までは、挙動不審な鉄っちゃんとして近鉄電車を味わいながらも読書など有意義なことをしようとしていました。

今回は純粋に電車を味わい、気が向けば「頭ノート」に気付きを記します。

鶴橋駅で

これってあれ?

「~しなければならない」に後押しされたインプットがないことは本当に心が楽です。前回、この区間を近鉄特急で移動したのは2020年の10月でした。職場の後輩と名古屋にサウナに行ったときです。その時のブログを読み返してみると、やはり私は行きの列車で語学学習をしていました。旅の相手がいるというのにです。

今回はただ外を眺めているだけです。すれ違う列車、田畑に植えられた作物、空を舞うトンビ、工場の屋根の形、そんなものをぼんやりと眺めながら名古屋へ向かいます。

私は今まで何をしてきたのでしょうか。鉄道が好きです。地理も好きです。語学も好きです。読書も好きです。「好き」がたくさんあっていいのですが、それらを同時に”効率よく”やろうとしてきたことが私の心のしこりを作り出してきたのでしょう。

確かに何も考えないとアウトプットが湧き上がってきます。名古屋に行く前は「見開き2ページぐらいかけるかなあ」と思っていたノートですが、この2日間を終えると6ページがびっしりと埋まっていました。しかも2日目の昼からはお酒が入ったため、ほとんど記述がないなかでです。

今「頭ノート」を見返しています。いろんなことが頭に浮かぶものだと思います。そのほとんどは、このように書き記さないとすぐに忘れられていくものです。例えば、こんな記述がありました。

  • 名張 → nobody 音が似てる
  • 中川短絡線の三角形 → 近鉄のビキニライン
  • 名古屋城二の丸の「便所」という表示 いずれ消える表現
  • 照強の懸賞は「伯方の塩」
  • 北勝富士 今日一番の尻を叩く音のデカさ
  • サウナ 男に生まれてよかった

どうでもいいようなことですが、こうやって見返すと書いた時の気持ちがよみがえってきます。私はオヤジギャグに汚染されているため、語学とギャグを絡めた記述が目立ちます。

しかし、名古屋城の「便所」の記述なんか書いていてハッとしました。私たちが当たり前のように使っていた言葉が、時の流れと共に消え去っていくのです。言葉が変われば、私たちの思考や物の感じ方も変わります。

今回の旅では、私は新たな立ち位置に立つことができたと思います。自分からのインプットをやめて、目の前の流れに身を任すことができたのです。しかし、私はその代わり「頭ノート」でアウトプットするという縛りを自分に課しました。これら両方を行わなく、本当に何も考えないで純粋に目の前の出来事を楽しむことができれば一番いいと思います。そして、それが本来の意味でのヴァケーションであり、新たな創造力の源泉となる活動だと思います。

こうやって書きながら、「ヴァケーション」を「創造力」という果実に結びつけようとしている私がいます。すべての縛りから解き放たれて楽しむことは、本当に難しです。

今回、頭ノートを書きながら思いました。これは「ツイッター」のようなものではないかと。私は、まだツイッターのアカウントを持っていません。しかし、手書きでノートをつけるのなら、ツイッターなら同じ手間で多くの人に発信できると感じました。

ただ、人様の目に触れることが前提ならそれなりの責任が出てきます。そういった意味では、記述の内容が制限されますが、それこそ、それは頭ノートに書けばよいのでって、ツイッターで発信するのも面白いかもと思っています。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。