一日自由に使えたらなあ…
仕事が忙しい時期は、休日出勤を行ったり、休みの日でも自宅で仕事を行うことがある。仕事を行いながら思う「休日ぐらいゆっくり休みたいなあ」。
そうは思うものの、同僚や上司たちも当たり前のように仕事がある時は休日であっても働いている。この仕事を始めて20数年ずっとそうしてきたので「休みたいと思いながら働くこと」が当たり前になってしまった。
休みの日は妻の買い物によく付き合う。僕の周りに「妻と楽しく買い物をする」という男は皆無である。私もその例に漏れない。商品を選び購入するまでの時間の流れが全く異なる。そもそも妻は何を買うのか決めないままに買い物に出かける。僕はゴールが見えない競技に付き合うことになる。
そういうことで、商品選択から購入までの時間の流れにこっちはイライラしてしまう。「どう思う?」とアドバイスを求められ「ええんちゃう」といい加減に反応しては相手は怒り出す。それなりに考えて意見をするが、僕の意見通りになることはあまりない。妻が求めているのは、自分の正しさを自分の思いつかなかった別の言葉で確認することなのだ。
子どもたちは高校・中学生となり、あまり手がかからなくなった。しかし、少し前までは休みの日はどこかへ連れて行ったり、所属する地域の少年野球のお手伝いを行ったりしていた。
感覚的にはついこの間まで、家族そろって公園に遊びに行ったり、美味しいものを食べに行ったりして子供中心のメニューで休日を過ごしていた。今は友達中心で、誘っても来ない。子育ての一時期にのみ持つことができた貴重な時間。少年野球も同様で、手伝いをすることで多くの親とも知り合いになり地域の一員に慣れた気がした。しかし、行っている最中は「休日をゆっくりすごしたいな」と思っていた。
仕事も家族も地域の活動も社会の中で生活するうえでは大切な要素だ。だから休日であっても、それらに時間を取られることはある程度仕方のないことだ。
しかし、僕は取りつかれている。効率よく役に立つ一日を過ごさなければならないという呪縛に。具体的に言うと3つの語学を学習し、身の回りのものの手入れを行い、本を読んで教養を身に付け、サウナやバイクなどの楽しい活動も行う。
だからいつも「休日を自分の思い通り自由にすごしたい」という思いを持ち続けてきた。そして、この一か月間、本当にそのような自由な休日がやってきた。その結果として、僕のモヤモヤは減ることはなかった。
思ったより時間が無い
コロナウィルスの蔓延によって3月中旬から休日出勤がなくなった。平日もできることは自宅で行うようになった。妻や子供との外出も、地域の行事も全くなくなった。つまり、僕は、仕事と少しの家事以外は家で自由に時間を使うことができるようになった。
もう2ヶ月以上休日に仕事を行っていない。ゴールデンウィーク中にどこにも行かなかったことは、ここ20年間で初めてのことだ。
いつも「時間がない」とか「休日を思い通りにすごせたら…」といっていた僕にまとまった時間がやってきた。さて何ができるのか。
基本的にいつも僕の心を束縛している語学から始めよう。午前中は英語を午後からはイタリア語と台湾語、という風に時間配分を決めて行う。音読のウォーミングアップを30分ほど行い、英検1級の問題集を解く。疲れてきたら、手元にあるがまだ読んでいない洋書に目を通す。
自分の頭の中で想像するペースより、めくられるページは少ない。昼食の後もつい読み続けてしまう。もうイタリア語を始めようと思っていた時間になっても英語を読み続ける。
予定より2時間遅れでイタリア語を始める。こちらは作文から始める。例文集の日本をイタリア語に直していく。もう3周りはやっているのに、久しぶりに見ると忘れている。少しイライラしながら15文ほど伊訳する。思ったより時間がかかる。
時計を見れば4時を過ぎている。今日はまだイタリア語のラジオ講座を終わらせていない。15分で終わらせ、テキストを音読する。そろそろ系統立ててイタリア語検定2級対策を始めなくてはならない時期であるが、問題集に手が向かわない。
そうこうしているうちに時刻は5時。唯一ランニングで外出できる時間だ。走りながら自宅でできなかった台湾語の音声を聞く。本当はテキストを見ながら行いたいところだが仕方がない。
夕食の時ビールを飲むかどうか迷う。というか迷うふりをする。つまり飲んでしまう。その時は「軽く飲んで、その後読書をするかブログを書こう」と思う。毎回思う。そして必ずそれが億劫になるぐらい酒を飲んでしまう。
まるまる与えられた休日、ずっと待ち焦がれていた自由に使える一日は、予想よりも短くて意外と何もできないことに気づかされる。そしてそんな休日をこの2か月間で20日以上持った。
言い訳ができない
「時間があれば~をやりたい」いつもそんなことを自分自身や他人に言い続けてきた。~の中身は、家の整理であり、ブログの整備であり、思いっきり語学を行うことである。
本棚には勢いで買った哲学書や洋書が何冊もある。「時間があれば」とう言葉と共に寝かせ続けてきた。
そういえば、革靴も2か月以上手入れしていない。「時間があれば」鏡面磨きをしようと思い購入していたワックスは、使われる前にひび割れている。
ブログの記事も大分たまってきた。「時間があれば」もっとwordpressの勉強をして、プラグインを入れて、見た目も機能もより良いブログにしていこうと思っていた。
「時間があれば…」
・バイクをきれいにする。金属部分にツヤを出す。
・スーツにブラシを手寧にかけて、まんべんなく蒸気をあててやる。
・衣類で終わっている「コンマリ流片づけ」を再開させる。
・商店街の魚屋で選んだ新鮮な魚を自分で調理する。
・ギターの弦を張り替え、配線の修理を行う。
そして、今、「時間はある」。
ゴールデンウィークの後半5連休、まるごと家にいた僕が上の中でできたことは300数十ページの洋書を1冊読むことだけだった。
その他の休日も3つの外国語を勉強するのが精一杯で、他の事まで手が回らなかった。その語学も満足できるレベルまで勉強できたかというと、全くそんなことはない。何語の勉強をしていても常に「時間が無い」「あ、もうこんな時間だ。全然進まない」そう思いながら時が過ぎていった。
時間があってもできないことはできない。というか「時間があれば」と条件を付けることは、結局しないための言い訳を作っていること。お酒は時間があろうとなかろうと飲んでしまう。飲まなかったらその後時間を作ることができると分かっていても。
「時間があればできる」と思っていた数々のことは、それをやれば僕の気分を良くしてくれる、つまりモヤモヤ解消の手助けになると思っていることだ。
しかし、今回待望の時間を手にして分かったことは、「時間があっても思っている以上にできることは少ない」ということと「時間があればという条件を付ける活動はなるべく持たないほうが精神衛生上よい」ということ。
実際に僕は今あまり気分がすぐれない。それは現実を知ってしまい「時間があれば」という言い訳ができないから。自分の中で、多くのことをそぎ落としていかなければならない。少なくともモヤモヤを解消したいと思うのなら、”やるべきことリスト”を減らしていくしかないと思う。
しかし、その減らす作業自体が苦痛を伴うものになりそうな気がして、気持ちが更に沈んでいる。