ラインでのやり取り
オーストラリア人の友人の童くんはこのブログにも何度か出てきているが、彼は今、彼の地元であるブリスベンで働いている。コロナで延びていた帰国が去年の末に実現したためだ。
私が若いころ「次はいつ会えるのだろう」と思いながら海外にいる友人に手紙を書いていたものだ。重量を減らすための薄い便せん書かれた手紙を、by air と書いた封筒に入れて郵便局に持って行き、重さを測ってもらっていたことを懐かしく思い出す。
テクノロジーは進化し、今はわざわざ手紙を書くこともなく、ほぼ無料で近くの友人と同じようなコミュニケーションをとることができる。童君とも頻繁にメッセージや写真、時には動画をラインで送りあっている。なんだか季節が日本と正反対の国にいるとは思えない。
先日は彼に満開となった桜の写真を送った。
“I am really missing Japan now.”
すぐに返信があった。
ちょうど去年のこの時期、私は童君を含む数名でこの桜の下でお弁当を食べた。2年前も同じことをした。コロナ禍が始まる前の春には、大々的に花見の宴を催した。
その度に私は童君に同じことを英語で説明した。それは「この満開の桜を見るたびに、嬉しさと同時に人生の儚さを感じてしまう」そういう内容である。
3月に入り、コートを着ていかない日が増える。ジャケットの下のウェストコートも登場しなくなり、やがてジャケット自体が薄手のものに変わる。桜が開花するまでの1か月間はこの服装の変化を見てもわかる通り、瞬時に冬が春へと変化していく。
だから桜の開花はいつも突然やってくるような気がする。つぼみが出てきたなと思ってから満開になるまでが、コマ送りで動画を見るような速さなのだ。
みんな思うことだろうが…
このブログを読み続けておられる方なら、桜を見るとき私大和イタチが何を感じるのかお分かりであると思う。それは、世の中のほとんどの人々が感じることと同じである。ただ私の場合は、多分、一般的な人よりも感じ方が強く、時には眠れなくなるぐらい深い。
今まで何十回と経験してきたソメイヨシノの開花。その度にこの花の持つ美しさに心を奪われてきた。花びらの淡いピンクは自己主張し過ぎることがない。それでいて離れて見ると圧倒的な美しさと優しさが同時に存在している。
この年に一度の僥倖をそのまま素直に喜べばよい。それだけのことであるが、私は喜びの反対側にあるものを考えずにはいられない。
「満開の桜が散ってゆく。私はあと何度この光景を見ることができるのだろうか」
私の想像は不必要な場所まで伸びていく。
「私がこの世から消えた後でも、この木は桜を咲かせるのだろうか」
「私の死後、この木が花をつけるとき、私はどういう状態にあるのだろうか」
こういうふうに考え始めると、私はもう桜の美しさを愛でる状態ではなくなる。何をしていても頭の中は「生と死」「始まりと終わり」「刹那と永遠」「存在と無」、そんなことでいっぱいになる。
私の体はさまざまな分子で構成されている。その分子は居場所を変えながら循環している。土の中にあり、それが植物の一部となり、虫の体内に入り、魚の一部になり、それを捕食した私に取り込まれる。
私の体も絶対的に定まったものではない。捕食と排泄を繰り返す中で、体を構成する物質も、つまり分子も絶えず入れ替わっていく。
私をつくっていた物質は私だけに所属しているのではなく、それは流れのように絶えず循環している。私が死んだときの体も、どのような埋葬の仕方であっても、体を構成していた物質は拡散を続ける。大気になり、土になり、水になり、他の生物の一部になる。
桜から離れていく…
物質は循環を続けていく。生物と無生物の間を行ったり来たり。数千年、数万年、数十万年と時間をかけながら、仮に一つの分子を個体として認識できるのなら、他の分子たちとの間で拡散と収縮を繰り返していく。
かつてそういう時代があったように、地球上に生物が存在しなくなる時が来る。そうなれば今度は無機質の間を行ったり来たり。どこまで変化していくのであろうか。
地球はやがて膨張した太陽に飲み込まれるという。私の体を構成していた分子は、いずれ太陽になるのだ。そして太陽は超新星爆発を迎え、私の体は宇宙へと拡散していく。
私の体の話はこの辺りにしておこう。次は私の心の話だ。私の心は何からできているのだろうか。今のところは「言葉を運用する効果」であると思っている。言葉とは何か。音の振動、インクの染み、電子的に作られたディスプレイ上の濃淡…
私は、童君に桜の写真を送り彼が日本を懐かしがっている話をしていた。しかし、桜の話を始めると私の思考はいつもこんな調子でズレていく。
桜だけではない。雪景色を見ても、真夏の太陽を見ても、果ては車に付いたサビを見ても、私は生と死について、または始まりと終わりについて考えずにはいられない。
そして、時にそれは布団に入りまぶたを閉じた後も続くことになる。今までにいったいどれぐらい時間を使ったことだろう。うわの空で仕事をし、眠れない夜を過ごすことで私は何を得ることができたのであろうか。
このような性格のまま長年過してきた。それはそれで仕方ないとあきらめて、受容してあげるのがよいと思う。
相変わらず、いろいろな自然現象を見るたびに私は不必要に時間を消費する思考を行ってしまう。そのことは変わらないものの、最近は私の中で楽しいこと、ワクワクすることを考える時間も大幅に増えた。心を調整するためにブログを書き続けて、本当によかったと思っている。
しかしながら、桜の開花と落花は強力である。
ブログを書き始める3年前と比較してはるかに整っている私の心ではあるが、この春の一大イベントの前では、元の自分に戻ってしまう。それは、この花の開花が出会いと別れの季節と重なるからかもしれない。
私は生まれ、この世の中と出会った。いずれ、それに別れを告げる日がやってくる。それはどうすることもできないことだ。それならば、年に一度、大きな歓喜と哀愁を味わうのもよいのかもしれない。