3年前のモヤモヤ
6月30日は私にとって特別な日です。3年前のこの日に、私は初めてブログの記事を書きました。当時の私の心のなかを振り返ってみます。
私は40代も半ばになり、相当焦っていました。心の中がいつもモヤモヤでいっぱいでした。男性の平均寿命は約81歳。私の時代には90歳ぐらいになるだろうと予測して、私は折り返し地点にいました。
そんな年齢になりながらも、私は成熟からは程遠い場所にいました。不安で心が落ち着きません。その理由は分かっています。私は死ぬことを恐れているのです。これは誰でも思うことであると思います。
しかし、ずっと死を恐れていては、今生きている、この生を味わうことができません。人々はさまざまなことに打ち込み一時的に死を忘れること、または生の楽しさを味わうことで何とか正気を保っています。
そのことは分かりながらも、3年前の私は自分がこのままのモヤモヤした気持ちで残りの人生を過ごしていくことに大きな不安を感じていました。
私は子どものころからずっと恵まれた人生を送ってきました。大金持ちの家に生まれたわけではありませんが、経済的に困ったことはありません。大きな病気で苦しんだこともありません。体つきも人並みで、顔も、世の中には「カッコイイ」といってくれる人もいます。
まだまだあります。理解のある妻と出会い、子どもたちにも恵まれました。お互いの両親ともいい関係を続けており、兄妹や親戚と言い争うこともありません。定職に就き、友達もいます。趣味はありすぎて時間の確保に困るぐらいです。
書いていて私は嫌な奴だと思えてきます。こんなにも恵まれた人生を送ってきたのです。それでありながら私は「心からの幸せ」を感じることができていませんでした。そして、人生の折り返し点を過ぎようとしていました。
「何とかしなければ死ぬ時に私は後悔する」そう思った私はすがるような思いでブログを書き始めました。「自分の心の内を書くことは自分を救ってくれる」その直感はありました。
だから最初の記事のタイトルは「書くことは癒しになるのか」でした。
書きながら見えるもの
当初は3日に1回、今は毎週土曜日+月に1回を目指して記事を書いています。3年間で記事数も220を超え、下書きも常に20ぐらいたまっています。これだけ記事を書いてみて、当初の目標通り私の心に何か変化は現れたのでしょうか。私は癒されているのでしょうか。
「その答えはYesとNoの両方がある」が今の私の思いです。
ただ、言えることは、日々過ごすなかではブログを書くことのメリットを感じる方が圧倒的に多いです。
私は「大和イタチ」という名前でブログを執筆しています。大和イタチは私のアルターエゴです。そして、アルターエゴの存在が私が私に向かう緩衝材になってくれています。彼が行うことは私のメタ認知です。
話がややこしいですね。彼は結局私なのですが、このブログの読者のリアクションを想像しながら、彼の名で私のことを書いていると、私の姿が立体的に浮かび上がってくる感じがします。
ビートルズにNowhere Manという素晴らしい曲があります。私はこの曲の歌詞が大好きで、私の解釈では「Nowhere Man=彼=私=あなた=みんな」という式が成り立ちます。
私と大和イタチと想定される読者との関係もこれに似たところがあって、こうやって記事を書いていると、良い意味で私の存在が軽くなってくるのです。
少し話がそれましたが、ブログを始めて心のモヤモヤが格段に減ったのは確かなことです。記事を書いていくうちに、生老病死ほど強力ではありませんが、モヤモヤの原因となっているものが見えてきました。それが見えれば対処のしようがわかります。
例えば「一日を効率的にすごさなくてはならない」というのは、私を苦しめてきた思い込みです。なぜそういう思い込みを持ったのでしょうか。それには語学が関係してきます。
語学は毎日続けてなんぼの世界です。3か国語を学習していた私にとって、一日のうちにこれらの学習時間をいかに作るかが大きな課題でした。そしてたいていそれは無理なことでした。そして、そのことが私の自尊心を低下させます。
中途半端な学習で力は伸びない一方で、時間の経過と共に「学習期間」だけは伸びていきます。ハッと気づくと英語は30年、イタリア語は20年、台湾語は5年も「学習期間」だけは経過していました。
「私はこんなに長い時間勉強しているのに能力が上らないダメな人」無意識のうちにこの刷り込みが行われます。
効率的に一日を過ごさないとこの刷り込みが強化されます。私はそうして無駄なことが楽しめない人間になりました。私のまわりの面白い人、または面白そうに生きてそうな人は皆一見無駄なことを本気で楽しんでします。
ブログを書きながら、この語学からやってくるしばりに気がつきました。そしてそれと決別するために英検の受験と台湾語学習を一時休止する決断を行いました。
展開していく
台湾語はもともと学習の優先順位が低かったので、5年やったとはいえ理解できないに等しい能力でした。しかし、もっと経済的・時間的に自由な環境を作れたらしばらく台湾で過ごす、という思いは常に持ち続けてますし、それが私が様々なことに挑戦する原動力になっています。
さて、英検ですが2年前に生まれて初めて受験し1級に合格しました。それで「勉強時間を確保しなければ」という呪縛は消えたかというと、全くそんなことはなく、相変わらず自分は英語ができないと思っているので以前と変わらず学習を続けています。
しかし、この英検1級合格には思わぬ副産物がありました。それは「全国通訳案内士」の英語の試験が1級合格者には一次免除されるという情報を知ったことでした。詳しく見ると、試験科目には日本地理と日本歴史があるではありませんか。
私は中学校社会科の教師になることに憧れ、そのための資格も取りながらそうならなかった人間です。教育実習で明治維新を教え、人文地理学で卒論を書きました。
英検に合格して全国通訳案内士のことを知ったとき、私のなかで20年以上前に捨てたはずのドットがつながりました。私は日本の歴史と地理の勉強を行い、全国通訳案内士の試験を受け合格しました。
ブログを書き始めるまでは、英検も通訳案内士も私の頭のなかにはありませんでした。書くことで、今まで存在しなかったストーリーが浮かび上がり、それが展開し、離れていたドットをつなげてくれます。
今回は「効率よく時間を使わなくては」という呪縛の気づきが全国通訳案内士へ展開した話を書きましたが、その他にもブログを書き始めてから始まったことがいくつかあります。
サイドFIREを目指していること、明石焼きの店を出そうと思うこと、実家にサウナを作ろうと思うこと、農業を始めようと思うこと、イタリアの語学学校に行こうと思うこと、それらのストーリーがこれから続いていくはずですし、私は展開させていきます。
「No」の部分
「ブログを書くことは癒しになっているか」という問いに対し、先ほど「その答えはYesとNoの両方がある」と記しました。最後に「No」の部分に触れようと思います。
文章を書くということは、自分の持つ感性のアンテナの感度を上げることであると気がつきました。だから、私はこの3年間で今まで見落としてきたいろいろなことに気づけるようになりました。
そのことは、多くの場面では私のモヤモヤを取り除く方向に作用しています。先ほど挙げた「効率よく時間を使わなくては」という呪縛への気付きは、その代表例です。
しかし、そのアンテナ感度の向上は私にある別の気付きを与えてしまいました。私が完全にモヤモヤから解放されるためには、あることと向きあわなくてはならなく、そのことに向き合うことは両刃の剣になりうるという気付きです。
それは、私の仕事について自分で向かい合わなければならないということです。それは、つまり自分の仕事についてこの場所で語ることです。
しかし、そのことは私にとって相当に覚悟が必要なことです。私は自分のやっていることに満足していますが、ここまでの道のりを振り返ることは自分にとって勇気の必要なことであるからです。私の中の無意識の世界から意識の世界へと、どんな記憶が飛び出してくるのかわかりません。そのことによって私は傷つけられ、もとのモヤモヤした中年オヤジに戻ってしまうかもしれません。
そうなってしまえば、私が3年間かけて行ったことが水泡に帰してしまいます。それならまだマシで、ひょっとすると「モヤモヤblog」が書けなくなるぐらいのモヤモヤ状態に陥るかも入れません。
しかし、私は向きあいます。「今すぐに」というわけにはいかないかもしれませんが、必ず私は仕事について語り始めます。
この前、契約しているサーバーのデータを見ました。このブログを読んでいただいている方が、予想以上にいることを知り驚きました。こんな独りよがりで、飾り気のない、字ばかりのブログをです。感謝の気持ちでいっぱいです。そしてコメント欄を開いていないことを申し訳なく思います。
もうしばらくこの状態を続けようと思います。私と大和イタチは、常にみなさんのリアクションを想像しながら記事を書いています。
私と同様に何かいつも不安をかかえながらも言語化できない人、語学を続けながらも力の伸びている実感を持てない人、バイクや鉄道やサウナの趣味がかぶる人、そのような読者を想像しながら、こうしてパソコンの前に座り、キーボードをたたいています。
三者の対談はこれからも続き、よいタイミングが来れば私の仕事の部分について語り始めようと思います。
今までブログを読んでいただいてありがとうございました。4年目もよろしくお願いします。