30年

昼飯ハシゴ

天気予報によると週末の天気が崩れそうだった。私はこの週末、実家へ帰って田んぼの畔の草を刈る予定であった。前回の草刈りから約一ヶ月、初夏に入ると草の成長する速度が増してくる。

雨の日の草刈りは憂鬱である。合羽を着ているとはいえ雨は隙間から入り込んで服を濡らす。何より気温が上がるとカッパの内側から汗で全身が湿ってくる。気分のよいものではない。

どうしたものかと親に相談すると、草はそれほど伸びていなく草刈りはまだしなくてもよいという返事であった。私は二週間後の晴れに期待してこの週末の帰省を取りやめた。

さて、予定がぽっかりと開いた。通常なら朝から語学と読書、家事があればそれを行い夕方サウナに行って夜に酒を飲むというパターンであるが、なぜかこの日はどこかへ行きたい気分であった。

「うどん食べに行く?」妻に聞くと二つ返事で賛成してくれた。この週末に部活のない次男も一緒に行くという。

「よし、明日は久しぶりにうどんをハシゴするか」私の興奮度が一気に上がった。

翌日昼前、私たちは中讃にいた。中讃とは香川県の中部、坂出や丸亀辺りのことを指し、うどん県香川の中でも特にうどんが美味しい地域である。丸亀市内を流れるを土器川の右岸を南へ進むと土手の下に多くの車が止まっているのが見える。中村うどんである。

「納屋のような場所でうどんが食べられる」「ネギは裏の畑で取り自分で切って食べる」そのような評判がこの小さなうどん屋さんをこの地域の観光名所にした。

次男のリクエストにより、私たちはここでこの日二杯目のうどんを食した。「昼食のうどんをハシゴする」考えてみるとおかしなことだ。しかし、そのおかしなことがブームになり観光客を集め出してから久しい。私たちもその中の一組である。

「グミのような」と称された弾力のある細麺を頬張ると懐かしさが込み上げてくる。「ああ、確かにこんな麺だった」とついこの前のことのように思うが、ここに前回来たのは20年以上前のことである。妻と二人でその時の様子を次男に説明する。

小屋の形は変わっていないが外装はもっと古かった。小屋に隣接する大きな飲食スペースやその西側の家はなかった。おそらくそこは畑であった。そんなことを思い出しながら話をする。

休憩を挟んで

二杯のうどんがお腹に収まる。私はすぐにでももう一杯行けそうだったが、妻と息子はお腹がいっぱいだという。私たちは腹ごなしに近くの運動公園へ行きウォーキングを楽しむ。

もうすぐ小麦の収穫時期なのであろう、黄金色に実った穂が美しい。この辺りでは二毛作が行われている。降水量の少ない讃岐は稲作が難しい土地であった。そのためより少ない水で栽培できる小麦が育てられ、それが瀬戸内海の塩といりこ、小豆島の醤油と合わさってうどん作りが盛んになった、そのように私は教わった。

この地には度々来ているが、このように小麦の美しさを感じることはなかった。5月に来たことがなかったのか、または年を取り私の感性が変化したのか。

よい運動をしたのでお風呂へ汗を流しに行く。香川でうどんをハシゴするときは途中にお風呂を挟むことが多い。お腹を減らすためである。なぜお腹を減らすのかというと、もう一杯うどんを食べるためである。よくわからないことをしているが楽しい。

風呂から上がり休憩室のマッサージチェアーでくつろいでいるとお腹が減ってくるのを感じる。私たちはシメの一杯を目指して車を走らせた。

国道32号線を高松方面へ向かう。時刻は二時半である。微妙な時刻だ。讃岐うどんの店は10時から麺売り切れまで営業するものが多い。作り置きの麺は出さないから、その日仕込んだ麵が無くなれば営業終了なのである。そして二時半とは麺が無くなりそうな時刻なのだ。

私たちは何軒か営業終了の看板を見た後、最後の一軒にたどり着くことができた。円座の「宮武」である。かつて琴平に同じ名前の名店があった。ここはそのレジェンド宮武一郎さんのお弟子さんのお店である。

この地域に多いセルフ式の店である。注文口に「あつあつ」「ひやあつ」といった文字が見える。宮武にやってきたことを実感する。私は麺もダシも冷たい「ひやひや」を注文する。

レンコンの天ぷらを取り、会計を終わらせネギと生姜を上にのせる。二杯のうどんが腹に入っているにもかかわらず早く食べたくてしょうがない。三人で席に着きいただきますをして麺をすする。

それぞれが無言で顔を見合わす。つまりそれほど美味しかったということ。しかし三人とも頭の中には違う景色が浮かんでいたと思う。私の中には初めて琴平の宮武に行ったときの様子が現れた。

道端に車を止め、少し下る感じで民家風の店に入り「ひやひや」を注文しゲソ天を皿に取り、周りの様子を見ながら生姜とネギをうどんの上にのせてうどんをすすった。あまりのおいしさに「これがうどんか」と思った。コシがあって香り立つ麺、いりこ出汁と生姜の組み合わせに今まで自分がうどんと考えてきたものとは別の食べ物だと思った。

香りとは人間の記憶に強烈に結びついているという。今回、円座の宮武うどんを食べて、その香ばしいにおいは30年前の琴平の店へと一瞬で私を連れ戻した。その年は「恐るべきさぬきうどん」第1巻が販売された年だった。私はまだ大学生であった。旅行中たまたまこの本を手にして購入、そこから長い讃岐うどんとの付き合いが始まった。

振り返り

私たちは家に帰り軽めの夕食を取った。テーブルでお互いに今日のうどんツアーの印象を語り合う。

妻が小さな白いノートを取り出してきて次男に見せた。そのノートには今まで私たちが訪問した讃岐うどんに関しての記録が妻の感想と共に記されている。最初の日付は1999年5月であった。高松の「丸山」と「松下」、善通寺の「山下」と「大釜」の四件を訪問していた。私たちはまだ結婚していなかった。

次男が記録を声に出して読む。

妻と私はかなりの頻度で讃岐デートを重ねていた。車がメインであるが、時には電車とレンタサイクルを組み合わせることもあった。2001年には9回も香川を訪問していた。次男の口から出る店名を聞き、当時の様子が浮かんでくる。まだ独身であった。この人と結婚しようかと意識し始めたころだ。

やがて長男と初めてうどんツアーをした日の記録が現れる。3年ぶりの香川であった。初めての子どもを、いろいろな人々の協力をいただきながら子育てし「そろそろ行けるかな」という時期に海を渡った。長男が初めて食べた讃岐うどんは丸亀の「富永」であった。

次の記録はやはり3年とんでいた。今度は次男が一緒だった。本人が照れながら記録を読む。次男にとって初めての讃岐うどんは満濃町の「三島製麺」であった。かなりディープな店である。その日はヴィレッジ美合に宿泊した。10年以上浮かばなかった記憶が一瞬でよみがえる。

なんだかんだいって私たちは家族四人で2年おきぐらいに香川に行っていた。最後に訪問したのは2017年であった。その数年前から家族四人で四国遍路を行っており、その道中で何軒かうどん屋に立ち寄っていた。

今回は6年ぶりの讃岐うどんであった。私たち家族の最大の思い出の一つ、四国遍路が終わって6年がたった。八十八番大窪寺に行ったとき、次男はまだ声変りしていなかった。

長男と次男のうどんデビューからは、それぞれ18年と15年が経過した。うどん好きの両親に生まれ、一日何杯もうどんに連れまわして申しわけなかった。腹ごなしのために連れて行った公園で楽しそうに遊んでいた姿が慰めである。

妻と讃岐に通い始めて24年目を迎える。この間、ディズニーランドを始めとする遊園地に彼女を連れて行ったことはない。うどん屋は200件ぐらい行った。よく付き合ってくれたと思う。彼女もそれを楽しんでいた。よい人と知り合えたことに感謝する。

讃岐うどんを食べるために香川に行き始めて30年が経つ。一緒にうどんを食べたさまざまな人の顔が浮かぶ。もう付き合いのない人も多いし、会おうと思ってもそれができない人もいる。

人の一生に30年という時間を重ね合わせて考えてみる。決して短い時間ではない。むしろ大学生を起点とする30年間は「人生そのもの」といえるほど多くのイベントが詰まった時間ではないか。

私からそんな30年間が通り過ぎていったのだと感じさせられる。複雑な気分だ。望んでも戻ることのできない日々。しかし、そんな時間の経過があるから今が存在しているのだ。

あれこれ考えるのはもうやめよう。私は今を楽しんでいる。今日、30年前と変わらないあのいりこと生姜の香りを味わったのだ。これからの30年も私は海を渡り続ける。幸いにも、うどんは年をとって歯が悪くなっても食べることができる。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。