5年経過

2019年6月

モヤモヤblogに初めて記事を投稿したのは2019年の6月でした。当時の私はあせっていました。「どうしていつも気持ちがこんなにモヤモヤするのだろう」と思っていました。

自分は恵まれた環境にいるのに、心からの幸せを感じることができていませんでした。文章を書くことで自分の心のアンテナをチューニングしようと思い、記事を書き始めました。その数は5年間で300本を超えました。

忙しい毎日の中で「ブログを書く時間が惜しい」と思うこともあります。そんな時、私はあるブロガーのことを思います。サラリーマンブロガーのフミコフミオさんです。

彼のブログを見て驚かされるのは、あのクオリティーの文章を短時間で書き上げることです。1〜2週に一度更新されるブログの最後にはその記事を作成した所要時間が記されています。結構なボリュームがあり、読むものを惹きつけ、相槌を打たせ、クスッと笑わせる、そんな記事を30分ほどで彼は書き上げます。

私は時折彼のブログを読み笑い、癒され、そして共感を感じます。その理由は彼の文章の中に私と同じ目的を感じるからです。それは、彼の文章の最終的な宛先が自分自身になっていることです。

自分に向けて文章を書き、自分と自分以外との関係を浮かび上がらせ、その中で自分を客観視し、それを一つ高い次元から認めてあげる。彼の文章を読んでいると、そんな優しい彼の姿が浮かび上がります。そしてそのことは私がこのブログで目指していることでもあります。

偉大なブロガーと自分を比較して申し訳ないのですが、私も時間がないといいながらもこうして文章を書き続けてきたのにはそういう理由があるからです。

本当は自分を認めてあげたい、そんなモヤモヤすることにも価値があると気づきたい、実はもう幸せな状態で心配事など無いと感じたい、文章を書くことでそのような矢印を私に絶え間なく向け続けているのです。

変わらないもの

記事を書くにしたがって、私はさまざまなことに気づくことができました。自分を縛って苦しめてきたことの多くは自分の中にあるのだとわかりました。

私は心をできるだけニュートラルにしながら、それらと折り合いをつけています。私の内面にあるものを完全に変えることはできませんが、やり方によってはうまく付き合うことができることをこの5年間で学びました。

私は5年前に比べて笑顔でいる時間が増えましたし、いろいろなことにも挑戦して楽しんでします。モヤモヤオヤジから機嫌のいいオヤジに変わっています。ブログを続けて良かったと思っています。

しかしながら、他の多くのことが好転しても私の中で変わらないことがあります。それは「老い」とその先にある「死」に対しての気持ちです。

私は時々ふとした瞬間に言いようなない恐怖を感じる時があります。私が老いて死に、弔われる場面、そしてその場面を見ている第三者の私がいます。この瞬間二人の私がいます。一人目は棺の中の私、二人目はそれを高みから俯瞰している私です。そして、そんな二人目の私など存在しないと想像するような時、私は恐怖を感じるのです。

ややこしい表現で申し訳ありません。端的にいうと「老い」が進み「完全な無の世界」がやってくることと言いましょうか。しかしこう書きながらも「無」は「無」であるから「世界」などないと思うと再び恐怖が湧き上がって来ます。「完全な無の世界」を知るにはその外側に立つ存在が必要だからです。

この感覚はどれほど文章を書こうと変わることがありません。

本当に人は出会うべきタイミングで出会うべき人に会うものだと今痛感しています。私はこの上の段落まで昨日書き眠りにつきました。今朝家を出る時、適当に電車で読む本を手に取りました。リビングの本棚で一番手前にあった本です。その本は前日に書いた下書きを読んでいたかのように私にメッセージを送ってきました。

私の読んだ本は芸術家の岡本太郎氏が書いた「自分の中に孤独を抱け」でした。読み進めるうちに「老い」についての記述がありました。

孤独で自由に生きれば、老いるきっかけがない。だから老いない。

永遠の青春ーそのかわり、一歩でも身を引いたら負けだ。

絶対に妥協しない。激しく挑みつづける。それしかない。

「自分の中に孤独を抱け」岡本太郎著 

誰にも真似できない燃えるような生涯を送った、岡本太郎氏の火の出るような言葉がつづられています。

確かに「老い」とは誰かと体や心の状態を比較した概念であって実体のあるものではありません。自分が「老い」を作らなかったら存在し得ないものです。そのためには「孤独で自由に、身を引かず、妥協せず、激しく挑み続ける」毎日を送ること。

心に火をつけてくれる言葉です。彼のような激しさはありませんが、私の中にもそんな生き方ができる要素があります。

残りの一つ

最後にして最大の課題、「死」について私はどのように振る舞えば良いのでしょうか。とても死ぬまでに克服できるような相手ではないと思いますし、そもそも「対決するもの」として捉えようとしていてはダメだと思います。

私の中に朧げながら一つの道筋が見えています。ヒントを与えてくれたのは私の大好きなみうらじゅん氏でした。彼の文章の中に「自分なくし」というコンセプトがありました。

彼の意図するものとは異なりますが私はこの「自分なくし」という言葉の響きに惹かれました。「自分」とは何なのか。人間の誕生以来考え続けられてきた謎です。

自分はあるようですがないものでもあります。もともと万物が流転していると考るのなら、その中で一定の形を持った自分に線を引くことなどできないはずです。

しかしながら、デカルトが言うように私は実際に何かを考えています。たとえすべてが幻であってもそれを考えている自分がいます。

そう考えると「自分なくし」は不可能なことであると思えますが、完全に無くすことは無理でも薄めていくことはできると思います。

「自分」が強くなるとき、人はややこしくなります。仏教で言うん煩悩に囚われた状態になるからです。周りを見ていても、やたらと自分の権利を主張する人で穏やかそうに過ごしている人はいません。

100年前、父も母も存在しなかったとき、当然私の「自分」はありませんでした。父や母が生まれ、出会い、私の「自分」が形成され、今に至っています。死がすべての終わりだとするなら、100年後には私の「自分」もいなくなっています。

話が逸れてきました。今私は何種類かの「自分」を混同して書いているという自覚があります。「自分」はややこしくてうまく考えることができません。そんな自分を薄めていき、考えなくてもいいような状態、自分と自分以外のものに境界がないような状態、そんな「自分なくし」へ向かってこれから考えて行動していこうと思っています。

私は「自分なくしの旅」を考えていきます。

6年目もよろしくお願いします。もっと明るい文章が書けたらいいなといつも思っているのですが、こればかりは私の性格なのか、なかなかそうはなりません。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。