パラダイス
神戸は丁度いい大きさの街だと思う。いろいろなものが程よいサイズで揃っている。山があって海があって、その真ん中に文化的な香りのする街がある。美味しい食べ物もあるし、古くからの酒どころでもある。
港町だけあって異質なものを受け入れる懐の深さもある。都会過ぎず、田舎過ぎないところもいい。実家から帰ってきたら「賑やかで活気があるなあ」と思い、大阪や東京から帰ってきたら「人が多すぎなくてほっとできる」と感じる街だ。
そんな神戸の街には私が個人的に好きな場所がいくつもあるが、その中で「本当に一つだけ挙げて」と言われたら私は「神戸サウナ」と答える。サウナーの間では全国的に有名な施設であるが、個人的にも一番好きなサウナでその名前を想像するだけで心が穏やかになる。
よく私の住む街にこのような素晴らしい施設が存在してくれたと感謝したくなる場所である。そして素晴らしいのは施設だけではなく、そこに息付く哲学というか、働く人の持つホスピタリティーというか、それらが一体となってオヤジの心身を全力で癒してくれる。
私は時々そのパラダイスへ行き、癒されると同時に何か新しいことを考えさせられてこちらの世界へと戻ってくる。3月下旬の平日、私は休みを1日とって神戸サウナへ行った。普段は平日に休みを取れない仕事をしているが、長期休業期間中は別である。大人気の施設である。どうせ行くなら人の少ない平日の昼間に堪能したい。
二足歩行
サウナ施設へ行く時、私は浴槽にそれほどつからない。サウナ室→水風呂→外気浴のループに入ってしまえば、わざわざ温かい風呂に入ろうと思わないからである。入るとすれば最初のサウナ室に入る前か、全てが終わり更衣室へ戻る直前かである。
しかしこの日の私は、何かに引き込まれるかのように外気浴の途中に浴槽へと入っていった。「何か」と書いたが実際は浴槽に浮かぶ丸太であった。
11,7度の水風呂の山側に立派すぎるウッドチェアが10台ほど並んでいる。その前には天然温泉の露天風呂がある。ウッドチェアで外気浴楽しむ私の瞳に、浴槽にぷかぷかと浮かぶ丸太が映し出されたのだ。
「ああ、あの丸太にしがみつきたい」と思った私は、見えない力に導かれるように浴槽へと移動しそれにもたれかかった。この浴槽には2本の丸太が浮かんでいる。直径50センチ、長さは1,5メートルというところか。その意図はよくわからないが、お湯の中で木に体重を少しあずけるだけでも体が軽くなるようで心地よい。
このように浴槽に入っていると奥にある案内板が目に入った。ここの温泉について書かれている。ここは街のど真ん中でありながら敷地内から温泉が湧きだしている。そのお湯は地下深く8000万年前に生成された花崗岩の間から湧き出ているという。
私は8000万年目にできた地層の裂け目から湧き出すお湯に浸かっている。そして、ふと目を上げた時私の頭にこの言葉が浮かんできた。
「二足歩行」
全て決まり事
私の前には、何一つ身にまとうことなく二本足で歩き回る動物たちが溢れていた。タオルを手にしている者はいるが、それ以外は何一つ人工物を身につけていない動物たちに私は囲まれていて、私自身もそれに他ならなかった。
8000万年前、マグマが冷えて変成し花崗岩が形成された。地殻変動でどこかからやてきたであろうそんな岩が神戸サウナの真下にあり、その間からマグマで温まったお湯が出てきている。
その時代は人類が誕生するよりずっと昔のこと。教科書によると人類の誕生は500万年前、私たちの直接の祖先である新人の誕生は4万年前に過ぎない。
時間が長すぎてピンとこないが、私の感じたことはこうだ。
この温泉が湧き出す花崗岩が形成された時から今に近づくほとんどの間は、特別なことなど何もなかった。全てが自然の摂理に従って、つまり人工的なものや人為的な取り決めは全くない状態であった。
私がお湯に浸かるこの大地の上にいた生き物は全て、数百年数千年単位ではほとんど変化することなく存在し続けてきた。人の一生に比べたら遥かに長い時間をかけて、遺伝子の突然変異を重ねて、生き物はその形を少しづつ変化させるだけだ。哺乳類もおそらくそうであったであろう。
しかし、人類は二足歩行を始め、両手を使うことを覚え、脳の容量を増やしてきた。他の動物と比べ変化の速度、とりわけ知能のそれが加速度的に増した。
その結果、私たちは今、意味で編み込まれた世界に暮らすことになった。それは言い換えると人工的なものと人為的な取り決めの内側で生きる世界である。
私は今日朝食を食べてここへやってきた。一日三食食べると決めている動物など人以外にない。休暇の手続きを職場に取り、決められた切符を手にし、誰かが作り運営する道と電車に乗り、神戸サウナの決められた場所で靴を脱ぎ受付の列に並ぶ。以上のどれか一つでも欠けるなら。私は「人としてどうか」という状態になる。
決められた手続きの後、決められた場所で服を脱ぎ、決められた作法でサウナを楽しむ。
そして私の前を歩く二足歩行の動物を目にする。100万年前の人類と同じで、裸のまま二本足で前を向いて歩いている。
しかし、同じなのはその状態だけだ。裸になって二本足で歩くというそのことだけだ。残りは全て異なる世界に私たちは生きている。現代では、そのままの姿で更衣室の外に出ると、その人は人でなくなってしまう。
二足歩行を始めても、人類は長い間言葉を持っていなかった。しかし言葉を持ちはじめてからは速かった。私たちは自然の状態を捨てて織り込まれた意味の中でしか暮らすことができなくなった。
ビルの7階の天然温泉に浸かりながら、私は8000万年前の地中から500万年前のアフリカ、そして現在まで思いを巡らせた。
どうでもいいことであるが、それらをあれこれ考えているうちに「結局全て決まり事である」という思いに至り気持ちが楽になる。私たちは全てが決められた中で、その規律の実行と意味の解釈に夢中になり苦しめられているのだ。そういう気持ちになっても私の悩みがなくなるわけではない。しかし、その構造の一部でも見えれば悩みが客観視され安心できるのだ。
やはりここ神戸サウナは、神戸で私が一番好きな場所である。
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