安福さんの玉子焼き機
私の手元には安福さんの作った9個穴の玉子焼き機があります。明石市中心部に工房と店舗を構える安福さんは、日本で唯一、木槌で銅板をたたき出し、手作りの玉子焼き機を作る職人さんです。
いつの日か私の田舎に帰って玉子焼きのお店を出したいと思い始めた私たち夫婦、安福さんの「とりあえず家庭用で作ってみて、うまく焼けるようになったらええやつを買ったらええ」という言葉どうり、まずは家で定期的に玉子焼きを作ることにしました。
関西に住んでいるため、我が家にも電気式のタコ焼きホットプレートがあり、月に1回程度タコ焼きを作ります。具材と生地を用意するのは妻、焼くのは私の役割で、竹串でひっくり返す作業は得意です。明石焼きはタコ焼きよりも柔らかなので割り箸を使うようですが何とかなるでしょう。
焼き機に付随した説明書を見ると、実際に焼きを始める前に行うべき準備が書かれていました。
- 焼き機に7分目まで油を入れて30分熱する
- ゆっくり冷まして、再び30分間過熱、これを4回以上繰り返す
- 小麦粉を水で溶いたもので焼いてみる
- 上手く焼けるようになるまでこれを繰り返す
いきなり玉子焼きを焼くつもりだった私は、いささか出鼻をくじかれてしまいました。今晩、最低でも3時間は鍋の手入れをする必要があります。
まだ酸化していなく、まばゆいばかりに輝く銅鍋に油を入れて火にかけます。銅は熱伝導がよくすぐに温まります。熱くなりすぎてコンロのセンサーがガスを遮断してしまわないよう、火加減に注意しながら熱します。
火にかけて数分で油の色が変色していきます。温まった油の香ばしい匂いがしてきます。油の溜まっていない焼き機の平面部分でも色が変化してきます。焦げたような黒い色ですが、箸で擦ってもとれません。鍋の成分が何かと反応したのでしょうか。
小麦粉を焼いてみる
2時間半の後、ようやく油となじませる作業を終えました。家族は夕食を終えています。私はビールを片手に、おかずをつまみながらの作業です。今日焼いて食べるつもりだった玉子焼きは明日へ持ち越しです。とにかく、指示された焼き機の準備を行っていきます。
説明書には「水で洗ってはいけない」と記されています。汚れた油を新聞紙に吸い込ませ、キッチンペーパーで焼き機を拭きます。再び過熱し、そこに決められた分量の水溶き小麦粉を入れます。
鍋肌から「ジューッ」という音がします。初めてこの焼き機が出した音です。数週間前までは明石焼きの店をしたいなど思ってもみませんでした。妻との話の中で浮かんできたひょんな道筋。何時になるかわかりませんが、その店へ向かうスタートの音のような気がしました。
銅製だけあってすぐに小麦粉が固まってきます。私は箸を手に、店の人の動作を思い出しながら生地を区切り、回転させます。
焼き機の位置が悪いのか、熱にムラがあるようで場所によって焼け方が異なります。お店の人は均等に炎があたる、焼き機がピタッとはまるコンロで焼いていました。
さて、説明書には「うまく焼けるようになるまで繰り返す」と書かれていましたが、その解釈がよくわかりません。水溶き小麦粉と実際の玉子焼きの生地とは違うものです。まあ「うまく焼ける=焦がすことなく焼くことができる」ぐらいに考えておくことにして、次の日実際に玉子焼きを焼くことにしました。
結局、この日は小麦粉を3回焼いて終わりました。
タコ焼きの比ではない
翌日、いよいよ玉子焼きデビューの日です。安福さんで買ったじん粉(グルテンの部分が少ない小麦粉)を出汁に溶き、よくかき混ぜた卵を加えます。前日、明石魚の棚で購入したゆでダコを1.5センチ角に切ります。
嫌が上でも気持ちが盛り上がります。
私がブログを書き始めたのは丁度1年前でした。何も不自由なく暮らしている私が幸福感を感じられないのはおかしいと思い、自分の心を調整するつもりで書き始めました。
書き始めて、いろいろな気づきがありました。気持ちを文字にすることで、自分が嫌だと思うこと、無意識のうちに求めていることなどが見えてきました。
しかし、1か月前、コロナの影響で自宅勤務を続けているうちに、時間があっても自分の思うように時間を使いこなせない自分に気づき、モヤモヤMAXがやってきました。
それから、悩みを相談する妻との間で明石焼きの話が出てきました。時期が来たら、仕事を辞めて田舎で気楽に明石焼きの店でも始めよう、そんなことから「明石詣」が始まり、安福さんの焼き機を手に入れ、初めての玉子焼きを焼こうとしています。数か月前には全く想像していなかった足場に立つ、そんなことが人生の面白さであるし、豊かな時代に生まれた特権であります。
コンロで熱した焼き機に油を引き、タコを投入します。ジュジュッという音と共にタコの香ばしい香りが立ち上がります。すかさず生地を流し込みます。タコ焼きと比べて卵の割合が多く、見た目も固まる感触も明らかに異なります。
割り箸を使って各穴の周りを仕切り、固まりつつある生地を穴に寄せて回転させる準備を行います。穴に接する部分に軽く焦げ目がついて固まったと思うタイミングで、2本の割り箸を用いて円を描くように穴の周りをえぐって回すと……、グジャっと玉子焼きが崩れます。
予想外の成り行きに慌てる私。残りの8個の穴も一発ではひっくり返ってくれません。タコ焼きを焼くときは、なんだかんだ言って最後は穴の中で球形になって表面もカリっとなります。
しかしこの日4回玉子焼きに挑戦しましたが、1度としてまともに焼くことができません。鍋に上げ板をのせ、サッとひっくり返すとそこには3×3列のきれいに焼けた玉子焼きが姿を現すはずです。しかし現実は、鍋からなかなか離れない、形が不揃いの小麦粉と卵の塊が醜態を示しています。
今までいろいろと料理に挑戦して、それなりのものを作ってきた自負はあった私ですが、久々にプライドが粉々になりました。
どこの明石焼き屋さんに行っても、四角の上げ板の上に丸い卵焼きが綺麗に整列して提供されます。私の焼いたものは、バラバラに並び、半分板に残りの半分は焼き機にくっついたままです。
「これを焼くのはタコ焼きとは比べ物にならないくらい難しい」
一瞬落胆した後、私の腹の底から「絶対にきれいに焼けるようになってやる」という思いが湧き上がってきました。
安福さんの説明書にあった「うまく焼けるように…」という言葉は張ったりでも何でもなく、そのハードルの高さを素直に素人に示してくれる思いやりの表れでした。
来週も再来週も玉子焼きを焼きます。