この1年間を振り返る

ブログを始めて1年

初めてブログに記事を投稿したのは去年の6月終わり。それから心に思い浮かんだことを不定期で言葉にし続けて1年、投稿の数は100を超えた。

きっかけは不惑を超えたにも関わらず、全く心が落ち着かない毎日を送っていたことだった。何に不満があるわけではない。すべてのことに恵まれている。なのに、この心を占める空虚な感覚は何なのだろう。

数年間そんなことを感じながら生きてきた。しかし、自分は平均寿命で考えても折り返し地点を過ぎていると意識した時、「このままでは絶対に死ぬ前後悔する人生を送ることになる」と思った。

それ以来、頭の中の思いを可視化し、心のチューニングをするつもりでキーボードを打ち続けている。

「ブログを続けることは難しい。とりあえず1年続けて100記事書くこと」ブログの書き方を探していた時、そのようなアドバイスを見た。そして今が丁度その「1年・100記事」にあたる。

そんなに書くことがあるだろうかと思っていたが、パソコンの前に座りさえすれば、何らかの言葉が出てくる。ようはその時間を確保できるかどうか。そう思うことが実は罠の1つだった。

「時間さえ作ることができれば、やるべきことができる」

実は私が当たり前のように持ち続けてきたこの考えが、私の中にモヤモヤを作り出し、私を苦しめてきたことに気が付いたのもブログのおかげだった。

・私にはするべきことが数多くあり、それらは幸せの源である。
・様々なことを効率よくこなすことが充実した人生を送るコツである。
・時間を無駄にせずに、どん欲に何からも学んでいこう。

これらのことを実践することで、今は忙しいかもしれないが、素晴らしい未来が私の前に待っているような気がしていた。

明るい未来を担保にして今を消費する生き方。キリギリスをバカにしながらアリに徹する生き方。

私に未来があることがどうして保証されているのだろう。

その単純な事実に気づくまでに数年の歳月と、100近くの記事を書く必要があった。

モヤモヤMAXの効能

心のモヤモヤを取り除くためのブログによって出される私の心の膿や老廃物。それらが心の器を打ち破ったのが5月に体験したモヤモヤMAXだった。心が疲弊した状態で、文字通り一日中寝る以外何もできなかった日。生まれて初めて病気以外で仕事を休んだ日。あれほどするべきことがあったはずなのに、何もしたくないし何も考えたくなかった日。目を開けたら涙が出てきた。

その日を境に私は考え方を変えた。自分の中の「~すべき」は自分が考えるほど重要ではないかもしれない、と思うようにした。「~すべき」は「~してもいいかも」ぐらいなのだ。

今までアリの生き方をしてきたが、キリギリスの要素こそ私に欠けていたということにも気づかされた。勝手に「人生の折り返し地点」と思っていたがそんな保証など何もない。あれこれ考える前に「今」を楽しんで生きること。これの積み重ねでいいんじゃないのか、そう思い始めた。

以前も「今を積み重ねる大切さ」は意識していたことである。しかし、モヤモヤMAX以前は頭の中だけでわかっていたこと。実感が伴っていないから、今を生きているつもりで先のことばかり考えていた。中途半端な「今」の味わい方をしていた。

今年の2月、近藤麻理恵の本を読んだ。「人生がときめく片づけの魔法」というタイトルだった。私も衣類の整理がしたくて読み始めた本であったが、忘れられない言葉に出会った。

しかし結局、捨てられない原因を突き詰めていくと、じつは二つしかありません。それは「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。

人生がときめく片づけの魔法 P238 

モノを捨てられない原因について述べられた部分であったが、自分の心のモヤモヤの原因を言い当てられた気がした。

好きな音楽から政治思想まで、世代の異なる人と接する時、知らず知らずのうちに自分の価値観に執着して、気分を損なうことがある。自分をいったん(カッコ)に入れて、相手に共感する気持ちが足りないのだ。自分の我を通すことよりもその場を良い気分で過ごすことの方が大切なことなのに。

歳を取ってくると、この執着、心の癖がかなり粘着質で重くなる。その存在を意識しないままに。そしてそのことは、心穏やかに生きること、幸せを実感することを阻害する。

この「過去への執着」、コンマリの本を読んで2月に分かったつもりであったが、モヤモヤMAXの後、最近になってようやく少しづつではあるが手放せている実感がある。

あれほど義務感に取りつかれていた語学も、今は好きな時だけするようになった。有意義に過ごすことばかり考えていた休日も、適当に無駄遣いをすることを覚えつつある。「オレがこいつと同じ年だったころは」ということも頭に浮かべないようにしている。

そういえば「過去への執着」と関係あるかどうかわからないが、高田純次がいい言葉を言っていた。

歳をとったら、やっちゃいけない話が3種類ある。説教・昔話・自慢話。だから俺はエロ話しかできない。

面白い冗談であるが、ある意味本当のことであるし、私自身も過去への執着を感じたら、エロ話を考えるぐらいでちょうどいい心のチューニングができると思う。

もう一つの不安

もう一つの要因である「未来への不安」はどうであろうか。

究極のところ一番の不安は「生老病死」である。それは個人的にもそうであるし、集団的にも人類が死という概念を持った時から変わっていないと思う。

誕生日を迎えるたびに感じる「1つ歳をとった」は「死へ1年近付いた」と同じに感じられる。例外なく人は年老いて死んでいくのだからそんなことを気にしてもしょうがない、頭の中では十分理解できるが、心がそれを素直に受け入れてくれない。

生老病死の不安から逃れるためには仏の知恵と力を借りなくてはならないと思う。寺や仏壇の前で仏様に手を合わせるのは好きなことなのだが、深く悟りの世界を求めようという気持ちには今のところなっていない。

生老病死が逃れられないことだとすれば、生きているうちにやることがあるということを意識し始めた。自分の寿命はいつ尽きるのか誰も知ることはできない。だったら、1年以内にやりたいこと、3年以内にやりたいこと、10年以内にやりたいことなどと人生を区切って考えてみるのも良いのではと思う。

このことを実行するきっかけとなったのは、昨年の12月に「リベラルアーツ大学」というブログを通じて運営者である両学長の考え方に触れたことだ。

お金に対する不安を解消するつもりで見始めたこのブログや動画であるが、この「お金の不安」は、「有限である私の人生のどの段階で何をしたいと今思っているのか」を真剣に考えることなしには解消されないことに気づかされた。

私はブレインストーミング用のソフト「マインドマイスター」と契約をして、人生マップを作り始めた。本当はあと50年ぐらいは生きたいが、とりあえず最長で10年後、直近は1年後にこうありたいという姿を描き始めた。

人生が有限であることは悲しいことだが、その有限性を意識するからやりたいことが見えてくるのだ。そう考えると、1つの物事には常に二つの相反する要素が同時に内在しているのだと思う。

「お金に対する不安」に対しても動き始めた。まずIdeco・積み立てNisaを始めた。保険を見直した。証券口座を開設した。ふるさと納税を始めた。日商簿記3級のテキストを手に入れた。

今までの自分を考えると、ブログを始めてからこの1年間は、知らなかったことを知ると同時に行動に移せることが多くなったと思う。

当初ブログ開設の目標だった「分に合った幸せの実感」というところまではまだ行っていない。しかし、そこへの方向は間違っていないという感覚は持つことができている。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。